2007年2月1日木曜日

ユダヤ人犠牲者のための追悼碑

言葉による情報は視覚芸術を圧倒する?



1月23日付けのフランクフルター・アルゲマイネ新聞。「史実は芸術よりも心を揺さぶる」というタイトルで、ベルリンの中心部に建つホロコースト追悼碑を訪れた小中学生たちへのアンケート調査の結果を報告している。この2005年5月から開設された「ヨーロッパ・ユダヤ人犠牲者慰霊館」は地上のホロコースト追悼碑と地下に設置された資料館その2つの施設から成り立っている。子供たちの回答にはどちらかというと資料館でのホロコーストの歴史に関する展覧会に心を動かされたという意見が目立ち、追悼碑そのものからはなかなかその趣旨を汲み取れていないという傾向が見られる、というのが記事の伝える内容。

この見渡す限りの灰色の瓦礫群はまるで旧約聖書の中の風景のようでもあり、或いは直立し地中に埋没する形体はアイデンティティーを奪われ抹殺されていった被害者達を象徴してるようでもあり、視覚的には読み取り方が開かれていながらもそれが限定された主題(ホロコースト)と知的に重なり合っていて、私がこの追悼碑を初めてみたときには割と感銘を受けたのを覚えている。追悼碑といえば通常は、英雄や犠牲者などの人物をかたどったブロンズ像が立っていたり物語を説明するレリーフが掛かっていたりしてそこがどういった場所であるのか読み取ることが出来る。あるいは瞑想のための祭壇を設置するなど宗教建築から借用した形式を取り入れることによって、訪問者は自分がどういった振る舞いをすればよいのか自ずと分かるような仕掛けがされている。そういった意味でこのホロコーストによる犠牲者追悼碑のもつ開かれた抽象的な性格、つまり造形のシンプルさが作品の自由な解釈を個々に委ねる点と、場内で各自が自由に行動できる開放性といった点は、表現における自立した強靭さであるが、同時にまた弱みでもある。その弱みの部分がこの記事では子供の目を通しながら取り上げられている。



確かに実際ここを訪れてみると、コンクリートの柱から他の柱にぴょんぴょん飛び乗って遊ぶ子供がいたり、大人でも柱の間をさまざまに巡ってみたりしてやはり「楽しい遊び場」 という気持ちの方が強い。それに立地。ブランデンブルク門とポツダム広場の間そして追悼碑の向こうには連邦議会が見渡せるという、人寄せが容易で政治的効果も大?といった以外に必然性を見出せないロケーションは自ずとエンターテイメント性を増してる気がする。しかも車通りが多くてその騒音で深刻に瞑想する気分でもないし。また記事によると予算不足で(ベルリンではよくあるパターン)最初の計画よりだいぶ縮小されてしまったのだそう。これが当初の計画通りの大きさで、見る人を威圧するようなものだったらまた話は違っていたのかもしれない。

こういった実際的な問題は置いておいて今回言いたいポイントは、言葉から得る情報と視覚から得る情報の質的な違い。この追悼碑では地上と地下 (地上にそびえたつコンクリート柱と地下の資料館) にその二つの役割がちょうど二分されて与えられている。子供たちは資料館の展示から得た知識に多くの感銘を受け、コンクリートの柱には意義を見出せなかったとアンケート結果は指し示したそうだけれど、この追悼碑のように抽象性が高く純粋にビジュアル的なものって、そこから感受したものを言葉に変換して他人に伝えることは可能なんだろうか? 言葉が指し示す内容は100%確実に他人に伝達されるけれど、視覚芸術にもそれが出来るの?  言葉のようには具体的な事物を指し示すことの出来ず、解釈が自由な (ように見える) 抽象芸術は、人と人とを繋ぐ共通言語であり得るのだろうか?  この追悼碑の目的を全く知らない人がこれを見たとき、その人々の間には共通の理解が生じてるのだろうか?

柱の間に隠された地下の資料館へ通じる入り口




参考記事:Christian Saehrendt: Information beeindruckt mehr als Kunst. Eine Umfrage unter Schülern nach deren Besuch des Holocaustmahnmals. In: Frankfurter Allgemeine Zeitung, FAZ, Frankfurt am Main 23. Januar 2007 リンク

1 件のコメント:

へびおんな さんのコメント...

そうですね。この観光地に対してわたしが持つ疑問点も、現代美術という形式のからっぽな器に政治的・社会的な意味を充填させているところなんです。正義とは何かを考えさせる前にこれが正義だと見せ付けられている気がするんです。・・・どうなんでしょうね。でもそれがそもそも「記念碑」なんでしょうか?