2007年1月22日月曜日

恋愛睡眠のすすめ

Michel Gondry 「THE SCIENCE OF SLEEP」 (2006)
ミシェル・ゴンドリー、サイレンス・オブ・スリープ

なんか観た映画の悪口ばかり書いてる気がしてちょっとだけ罪悪感にかられたので、最近観た中で良かった映画を思い出して引っ張り出してみました。
何がよかったかというと、理想化で恋に恋する夢見がちな主人公の主観的時空間に沿って、映画の時空間が作られていて、それがすごくうまくいってるからです。
タイムマシーンが機能したり、夢と現実がごっちゃになった後で現実世界のギャップに突き当たったり。そんな経験、身に覚えがある気がします。



ホームページ:
http://www.science-of-sleep.de/start.html
ところで、シャーロット・ゲンズブールの脚にはびっくりしました。

ザ・ファウンテン

Darren Aronofsky 「THE FOUNTAIN」 (2006)


π (パイ) のダーレン・アロノフスキー監督の新作を ハッケッシャー・マルクトにある映画館キノ・ツェントラールで観た。主人公の男性は現代に生きる脳医学の研究者で、猿の脳を解剖してて、奥さんは病気でもうすぐ死ぬらしい。そして中世ヨーロッパに生きる同主人公は、奥さんと同じ女優が演じるお姫様の願いで、不老不死の薬を探す旅に出る。そしてもう一つ、未来の大きな木の下に佇む主人公。この3つの異なる時間軸が前後入り乱れながら、物語が進んでいく。現代の奥さんが癌で亡くなって、その奥さんがノートに書いていた物語が過去の中世の騎士物語と繋がり、その物語に登場する主人公が最後に不老不死の木を見つけた時点で、未来に生きる主人公の姿へと繋がる。

ストーリーは単純。愛する妻の死を主人公が時空を超えた心の旅を終えて乗り越える。登場人物達の演技は大げさ。とても悲しいのは分かるんだけどいつも同じトーンで深刻すぎるのはかえって現実味に欠ける感じで、演出の意図に反して観客の方がしらけてしまうような場面も。映像的にはきれいに出来てるところもあるけど、例えば未来の主人公が浮かび上がって座禅のポーズのまま宇宙空間を駆け抜ける場面などは、新興宗教の教育ビデオを見ているようなキッチュさ。これが真面目すぎる演出と相乗効果を生んで、ちょっと正視するのがつらかったりもした。

一番気になったのは、マヤの古代文明、中世ヨーロッパの異端尋問、東洋宗教のヒッピー的解釈 (?) といった、あらゆる神秘主義的事象が全く節操なくミックスされているところ。(そしてそれらの精神世界が収斂するのがここでは現代の脳医学。) こういった、異文化の神秘的なエッセンスだけをリアリティーが欠如した形で困難なく採り入れてしまって、その上でまじめでいられるところが、アメリカなのかな、と考えた (行ったことないけど)。そういう文化人類学的興味で観るならおすすめ。

体験する絵画

Rodney LaTourelle

ギャラリーに設置されたインスタレーション。ちょうど人一人が通れる狭い入り口を入るとそこはピンクと白のストライプの世界。ヨーゼフ・アルバースの色面絵画やバーネットニューマンのストライプ絵画の中に入り込んだよう。内部は3つの細長い空間に仕切られていて、次の空間への通路とストライプの色面との判別はつきにくく (写真の右側の壁を良く見てください) だまし絵のようになっていて、鑑賞者は内部を動き回りながら自分でその通路を発見することになる。

入り口を入ってすぐの部屋はピンク X ホワイトのストライプ。白部分が少し光沢のあるペイントで壁表面の物質感が感じられるのに対し、ピンク部分はマットに処理されていて光を吸収し、物質感が消え色自体が奥行きを持つ。内部に入って左には、自然光を採り入れる窓があり、ここではもともと展覧会場にあった条件が作品に計算高く取り込まれている。入って右にはピンク色のネオン灯に照らし出される小空間がくりぬかれている。窓からの自然光とネオンの人工光は、色面に異なった表情を与える。そのピンクのネオン管に灯された小部屋はちょうど人間一人が入り込んで座れるように、台が設置されている。この光の小部屋はジェイムズ・タレルの光の絵画を想わせ、「色」 はここでさらに非物質的なものとして体験される。また、ちょうど人間サイズの空間はロバート・モリスの 「擬人感」 を想わせ、ここで作者の意図的な出発点が明確になる。

次の部屋はグリーン X ホワイトのストライプだが、なんとなく部屋の印象が薄暗い。感覚を思い切り研ぎ澄まして色面を観察すると、白だと思ってたの色面は青味がかったグレー。また、黄緑一色だと思っていた色面もよく見るとそこには紫が微妙に混ざり、ピンクのネオンの反射と同一化して、通路の凹みを気づきにくくしている。

最後の部屋はシルバー X ホワイトのストライプ。シルバーという、モノクロームでありながら光沢のある、今までの色面とは質の異なる組み合わせがされている。蛍光灯のピンクの光も銀色の色面に反射され、白い壁面に対してその質感が際立つ。

最後に同じ経路を辿ってインスタレーションの外に出てみて初めて、内部に入る前に持ってた期待に対して、ずいぶんのっぺりした平面的な空間だった、と思う。そうしてみると、まるで絵画キャンバスの裏側を見るような、このそっけない建てっぱなしの外観に、あ、この作品は立体でありながら絵画的イリュージョンの問題を扱っているんだと気づく。



Rodney LaTourelle: "in the absence of unambiguous criteria"
(von 11.01.2007 bis 01.03.2007)
PROGRAM :: initiative for art + architectural collaborations
Invalidenstraße 115, 10115 Berlin Mitte

アーチスト INFO:
http://www.canadianarchitect.com/issues/ISarticle.asp?id=70733&story_id=CA133294&issue=02012002&PC=
展覧会 INFO:
http://www.programonline.de/

2007年1月13日土曜日

キム・ギドク 「春夏秋冬そして春」

キム・ギドク監督の韓国映画 「春夏秋冬そして春」 を見た (goo 映画)。ストーリーから読み取れるメッセージはずいぶんひどい。登場人物全員がシリアスすぎて、その生真面目さも純粋すぎると言うか根拠不明で不気味。動物を苛めたからといって罰を受けたり、女性と関係を持つことがさもいけないことであったり、子供を見捨てた母親がすぐ死んでしまったり。ちょっと真面目さに奥行きが無くて、この監督きっと傲慢なひとなんじゃない?と思ってしまう。ごめんなさい。一緒に観たドイツ人は二人とも憤慨。ドイツ男は、仏教僧は飄々としてて面白い人たちというイメージが自分にはあって、でもこの映画ではずいぶんくそ真面目で一直線で 「みんなナチ」と問題発言をしてたし、ドイツ女は、女性という存在自自体が罪といわんばかりの描写に不満だったよう。そういえば同監督の 「サマリア」 (goo 映画) も父権主義的という点で同じくらいひどかった。わたしは主人公の父親を殺したくなりました。 ・・・と憤慨しつつも、この映画を純粋に造形的に、または映画的時空間の構築といった面から見てみたら、なんだ結構悪く無いじゃん、しかも面白いじゃん、となりました。

仮想の境界
この映画では 「ドア」 が象徴的な使われ方をしている。湖上の庵に住む僧達が外界に出るとき、彼らは小船に乗って岸までたどり着き、そこから岸辺に建てられた門をくぐり、外界へと出る。そのドアは聖と俗の二つの世界の境界になる。そして幼年僧と若年僧とがそれぞれ罪を犯すのもこの境界の外。また、湖上の庵の内部にはいくつかの部屋が設定されているが、部屋ごとの仕切りであるべきラインには壁が無くぽつんとドア枠が立っているだけ。「どこでもドア」みたいなドア枠。登場人物達は隣の空間へと移動する際、いちいち律儀にそのドアをくぐる。部屋を仕切る壁は登場人物達のみに存在し、観客には見えない。ある夜、少年僧が眠り込んだ老僧のとなりの床からそっと抜け出し少女の横たわる部屋へと忍び込むとき、彼は一度ドアを通りぬけようとするが、思い直してドアを通らずにその脇から境界を越える。禁じられた行為の暗示。こういう仮想の境界って、仏教寺院に見られる結界に似ている?

聖と俗、二つの世界の対立と、さらなる鳥瞰パースペクティブ
映画冒頭からラストシーンに至るまで、観客には聖と俗、山に囲まれた湖上の世界と外にある世俗界、この二つの世界しか提示されない。主人公の僧は幼年から青年期を経て壮年にいたるまで絶えずこの二つの世界を行き来し、同時に過ちを繰り返す。俗世界は観客には見えない (見ることが出来ないのは映画の中だけ。なぜなら俗世界とは映画を見ている観客の居る世界だから?)。子供を捨てた女性が事故で死んだ後、何を思ったか僧は観音様を背負って山に登る。斜面を這いつくばるように登りながら彼は自分が虐めて殺してしまった動物のことを考える。そして映画のラストシーンは山頂に置かれた観音像とはるか下に見える湖上の庵の風景。それまでの聖と俗の二元的世界に対して、映画の一番最後になって初めて、湖上の世界を上から下へと見下ろす第三の視点が導入される。
映画タイトルが示すように、子供から大人へそしてまた子供へと同じ過ちが繰り返され、季節も春から冬そしてまた春と永遠に繰り返される。そういった時間的反復とはまた別にもう一つ、永遠に反復される空間性をもこの鳥瞰風景は指し示す。僧がこれまで自分が存在した世界を見下ろし、自分自身を自ら虐めた小動物のように感じるように、空間は入れ子状に何重にも重なる。我々が見下ろす小動物の世界が存在し、それ故に我々人間の存在を身下ろすさらに大きな存在がある。

一緒に映画を観たドイツ人2名には、仏教寺院が舞台であるところから自動的に仏教的世界観を映画に期待し、そしてそれが宗教であるという理由だけでキリスト教のシンボル的なイメージの取り扱い方をあてはめようとしてしまうみたい?百合の花 = 純潔、みたいな。そういう辞書を引いて意味を解読するのとは違うイメージ解釈の方法があること、それがこの映画を観て考えたこと。

2007年1月12日金曜日

KEIN SCHÖNER LAND

KEIN SCHÖNER LAND (weil sie nicht deutsch aussahen)
ハンス・ハーケ展より

会場入り口の壁面インスタレーションより

ハンス・ハーケ展

HANS HAACKE: Wirklich

ベルリンのパリ広場にある美術アカデミーでハンス・ハーケの展覧会をやってる。彼のインスタレーションは設置される場所と密接に関係してそこから意味が発生する要素が重要なので、この展覧会は過去の活動を回顧してカタログ的に紹介するもの。なのでパネルに張られた作品写真を拝んで、壁に掛かってる説明をひたすら読むのがテーマ。立ってるのもつらくなるし、かなり充実した時を過ごせます。

政治的コンセプチャル・アート
ハーケといえば1993年ベネチア・ビエンナーレの 「ゲルマニア」 が有名だけど、彼の名をドイツ人一般に知らしめた作品が 「DER BEVÖLKERUNG」 (2000): このページの "abrufen" をクリックすると入力日時の作品が見れます。ブランデンブルク門の隣、東西ベルリンの境界にあったため戦後長いこと放置されていたドイツ連邦議会。首都がボンからベルリンに移り建物が修復され、そこに設置する美術作品として招待作家のひとりであったハンス・ハーケが提案したのがこの 「DER BEVÖLKERUNG: 居住民に」 。この作品の出発点は、ドイツ連邦議会の建物の正面に1916年からに記されている 「DEM DEUTSCHEN VOLKE: ドイツ国民に」 という言葉。ここでの VOLK (国民) という言葉がどちらかというと 「ドイツ民族」 という血統を強調した表現と誤って理解されがちであることにハーケは異議を唱える (リンク) 。連邦議会堂の中庭に置かれた DER BEVÖLKERUNG (住民: この地に居住する人々、といった意味) という文字をかたどるオブジェの足元には当時の議員がそれぞれの出身地から持ち寄った土を敷き詰め、その後放置される。DER EVÖLKERUNG の文字をかたどったオブジェは、その土から生える雑草の中に次第に埋もれていく。当時、ドイツ保守である CDU (キリスト教民主同盟) の議員が作品設置に対しての反対キャンペーンを実施したという、まるで作り話のような、よくそんな罠にまんまとはまる議員がいたものだと思わせる事件も起き、作品が一般にも知られることとなった。展覧会会場では連邦議会で行われた当時の議論のビデオが流れる。

人を怒らせることをわざとして、その人の本心を暴くやり方って・・・。それが許されていいかは別の問題として、作家としての活動初期からその手法が取られていることがこの展覧会では観察できる: 1971年の、「シャポルスキーとマンハッタン不動産所有者他 実況社会システム 1971年5月1日付: Shapolsky et al. Manhattan Real-Estate Holdings, a Real-Time Social System, as of May 1」 。ニューヨーク・マンハッタンにある不動産の正面写真と売買の記録が淡々と並べられ、それらの不動産売買を通じて親会社であるシャポルスキー・グループのみが利益を得るからくりが暴露される。ハーケは当時この作品を他の作品と共にある美術館のある企画展 (名前思い出せず) に出品し、美術館側から拒否され、それでも出品をあきらめなかったら、ついに展覧会の企画自体がお流れになってしまったのだそう。そこで当時憶測された拒否の理由は、美術館の運営委員にシャポルスキー・グループに関係する人間がいる事実からである、ということ。私がこれいいな、と思ったのは作品のありかたが純粋にコンセプチャルだから。同じように政治的な連邦議事堂の作品においては、設置場所がアートの文脈を離れるために、そしてそれでもなおかつアートであり続けるために、彫刻としての体裁を提示しなければ成立しない。ちょっとパラドキシカルだけど、「シャポルスキー」 のような初期の作品は純粋にコンセプチャル (非物質的) でありつつ、アートを成立させる体制の文脈を意識的にかき乱すことによって作品が成立していた。

エコシステムとしての社会構造

今回の展覧会最大の謎は、60 年代ミニマルの影響を受けた彫刻作品群。壁面にずらっと説明パネルが並ぶ真ん中に、どん、どんと微妙に違ったコンセプトを持つ彫刻作品が置かれている。挑発的なポリティカル・アーチストといったハーケのイメージとはずいぶん異なる。「波」 と題された、透明なアクリルの薄いケースに閉じ込められた水が波のようにゆらゆらゆれる作品や、青いナイロンの旗が下から扇風機の風に煽られて翻る作品など。これらのミニマルの姿を借りた生態学的な作品群が彼のその後の政治的姿勢とどのように関連してくるのかが簡単には語り尽くせないところで、一番面白いところでもあると思う。ただ「循環」 というゴム管の中を水が一つのモーターを起点として循環する作品が提示する生態系的モデルと、不動産を巡り一企業に利益が回収されていく利害関係についての相関図が一致するのに気づくき、DER BEVÖLKERUNG が自然発生する雑草に覆われていることに想いを馳せると、結局一人の作家は時代と共に作品提示の方法論さえ変わって行くけれども作家としての本質的な基本姿勢は変わらないんだなと、いつもながら思う。で、その変わらない姿勢って、どういうことなんだろう。

HANS HAACKE
wirklich
Werke 1959-2006
Ausstellung 18.11.-14.1.2007
Akademie der Künste / Pariser Platz




展覧会サイト:
http://www.adk.de/de/aktuell/veranstaltungen/i_2006_1/HANS-HAACKE-wirklich.htm
会場風景:
http://www.adk.de/de/aktuell/veranstaltungen/i_2006_1/Hans-Haacke-Installationsansichten.htm
作家について:
http://www.b-sou.com/palm-Haacke.htm

注意!
ベルリンにはアカデミー・デア・キュンステ (芸術アカデミー) が二つあります。そしてむやみに出かけてみると必ず間違えます。施設や機関がなんでもふたつづつあるのは、東西二つのベルリンが存在したと言う歴史ゆえそれがこの街のおもしろいところでもあるんだけど。展覧会を訪ねる場合はどちらのAkademie der Kuensteが会場か絶対に確認してから出かけましょう。でもたぶん私がばか。

2007年1月11日木曜日

キシェロフスキの 「赤」

クシシュトフ・キェシロフスキ監督の 「トリコロール 赤の愛」 (あらすじ) に登場するメディア、コミュニケーションの媒体について。

電話
・ 主人公とその恋人
・ 主人公とその家族
・ 法学生とその恋人
・ 天気予報サービスを利用する人々
・ 内密にゲイの恋人と電話をする父親とその会話を隠れて聞く娘、ヘロイン密売に日本製の電話を使う男

マスメディア
・ 船の事故についての新聞記事、テレビ報道。
・ 「モデル」 というヒロインの職業。写真や街頭ポスターなど、メディアの中に存在する
・ ラジオ (ヒロインが犬を過って轢く直前に混線し、ハプニングを予感させる)

退官判事は 「神」 のメタファー?
・ ヒロイン以外の人物との直接のコミュニケーションは無い。(ヒロインもまた老人以外の人物と直接触れ合うことはない)
・ ヒロインとの出会いはまた、犬という媒介を通して起きる。
・ 判事という職業 = 裁く者
・ 人のプライベートを盗み聴くという行為。
・ 他の人物とのコンタクトは媒介を通してのみ: 老人の自宅の窓に投げ込まれる石 (他者の悪意)

そしてコミュニケーションの不成立
・ ミュージックショップで登場人物達がお互いを知ることなく隣り合わせにヘッドフォンで音楽を視聴するシーン。それぞれの頭に響くそれぞれの音楽。 (個人的に好きなシーン)
・ ボーリング: プレーヤーが直接対峙するのではなく、個々がレーンに立ち成立するゲーム。
・ イギリスに居る恋人の不理解
・ 恋人の裏切りを最後まで理解できない若者

そして映画の最後に、難破した船から救出される3部作 (青・白・赤) における主要登場人物7人。この荒唐無稽な演出も、「登場人物が助かった」 のではなく、「助かった人々を物語の中心に据えた」 と考えてみると、そこで物語の因果的構築がひっくり返され、より大きなまなざしで3部作を見つめることになる。

2007年1月9日火曜日

勅使河原宏 「砂の女」

立て続けに日本映画に凝ってしまいました。へび君はそろそろハリウッド映画がみたいと。今回はちょっときつかった。砂の女さんの顔におびえ、しかもあらすじが最初からわかってしまいました。ごめんなさい。

映画INFO: 砂の女(1964) - goo 映画

フィルムの中の時間と空間

ベルリンのハンブルガーバーンホフ現代美術館で行われている 「映画館の向こう側: 投影の芸術」 というタイトルの展覧会。1960年代から最近までの映像を使った美術作品をいくつかのテーマ別に陳列。私たちが普段エンターテイメントとして消費している映画を、換骨奪胎して映像と言うメディアが持つ独自の時空間を明示する。いくつか個人的に気に入った作品をここに紹介。

ピエール・ユイグ
Pierre Huyghe: „L’Ellipse“, 1998













タイトルは 「略述法」。ヴィム・ヴェンダースの1976年撮影の映画「アメリカの友人」が横に3枚並べられたスクリーンの一番右に映写される。人と会うためにパリに来る主人公。それが終わると次は真ん中のスクリーンに、その主人公を演じる俳優ブルーノ・ガンツが、20年の歳月を飛び越え現在の年老いた姿で、ホテルから外出し約束の場所に辿り着くまでパリの街を歩く。待ち合わせ場所への到着の瞬間、映像は左側スクリーンへと移行し、映画「アメリカの友人」からの続きのシーンが映し出され、作品は終了する。映画から抜粋される2つのシーンをつなぎ合わせる真ん中の映像は、映画撮影から20年経た現代パリの風景、映画的な物語空間とは異なりカット無しの長回し、役者は自然に振舞い、写実的・ドキュメンタリー的に撮られている。かわって虚構のナラティブな映画空間の中では、ある時点から次の物語を繋げる時点までが一足飛びにカットされ、変速的な時間軸に沿ってストーリーが語られていく。そういう映画技法上の事実がここでは重層的に組み替えられている。

モニカ・ボンヴィチーニ
Monica Bonvicini: „Destory She Said”, 1998













タイトルはマグリット・デュラスの小説から。2枚のスクリーン上に、往年の女優たちのドラマチックなシーンが映写される。スクリーンはベニヤ板を使って簡単に設置されていて、舞台の書き割りを想わせる。スクリーンの背後には赤いランプが灯り、その存在を浮かび上がらせる。映画のシーンの中では、モニカ・ヴィッティ、カトリーヌ・ドヌーヴ、アンナ・カリーナといった女優たちが壁に寄りかかり、それぞれ劇的に絶望してみせる。1950年代から70年代にかけてのヨーロッパの作家主義的な映画。それらが男性監督の作品であることから、父権主義的な構造の中で人目に晒される女性たちの姿とも読める。
ここでなんとなく気になったのは、どうしてスクリーンが2枚必要?ということ。ひとつは垂直に、もうひとつは斜めに後ろから支えられている。きっと画面がひとつだと映写されるイリュージョンの中に没入してしまいがちだけれども、画面が2つありそこから意識の集中が分散されることで、背後からの赤いランプに浮かび上がる安っぽいスクリーンの物質としての存在感が際立つからでは?その薄っぺらな存在感は、ヒロイン達が意味を成さない言葉を発しながら感情的なシーンをドラマチックに演じる劇的なシーンの薄っぺらさとも重なる。

ジョン・マッセイ
John Massey: „As the Hammer Strikes“, 1982













この作品ではうって変わって車、仕事、テレビ番組、ガールフレンド、ストリップ小屋といった男性的事象が提示される。作家がヒッチハイクで拾った若者と交わした実際の会話を映像作品として再現したもの。3つの画面が横一列に並ぶ。真ん中の画面には常に走行中の車内の風景。車内の後部座席からの撮影。会話を交わす男性二人の後姿。車のフロントガラスを通して車内から見る外の風景はここでは、映画のスクリーンに見入る現実の鑑賞者の姿と重なり、また会話を交わす両者の姿がそれぞれの座席からお互いを確認しあう角度から映し出される。作品鑑賞者と登場人物の同一化。そういった走行中の車内の風景と交互に、会話に登場する事物が同時進行で左右のスクリーンに映し出される。車内のシーンが古い写真のような色褪せた色彩であるのに対して、これらのアソシエーションは白黒。商業映画の物語的な空間と比較して、ここでは主観的な意識の流れが重視されている。

アンディ・ウォーホール
Andy Warhol: „Outer and Inner Space“













2つ並べて映写される16mm フィルム。ウォーホール映画の出演女優イーディ・セジウィックが、自らインターヴューに答える映像が映し出されるヴィデオモニターの前に座って、画面上の自分 (あるいは画面の向こう側に存在する人物) と会話する。

展覧会タイトル「映画館の彼岸」は、スコットランド出身の作家ダグラス・ゴードンの「映画館は死んでも映像は生きつづける・・・」とかいう発言に乗っ取ってるらしい。ちょっと意味不明だけど、そういえば、彼の前回のベルリン・グッゲンハイム美術館での展覧会 (ここ) には、会場の奥に映画館が設置され、入り口にはEXITのネオンが鏡文字になって点灯していた。映画館の中が幻影の世界なのか、それともこちら側が幻影なのか。

展覧会INFO:
Jenseits des Kinos: Die Kunst der Projektion
Filme, Videos, und Installationen von 1963 bis 2005
29. September 2006 – 25. Februar 2007
リンク:
展覧会サイト (ハンブルガーバーンホフ現代美術館)

2007年1月8日月曜日

今村昌平 「復讐するは我にあり」

をみた。最初から最後まで主人公の犯罪の動機が知りたくて観続けるのに、結局説明はなし。そこがすごくえらい。唯一動機の説明になりそうなのが、敬虔なカトリック信者であった父親との関係の描写。でもそれもなんか微妙。

リンク: 復讐するは我にあり(1979) - goo 映画

2007年1月3日水曜日

1月1日0時 オーバーバウム橋

あけましておめでとうございます。


クロード・レヴェック 「讃歌」

Claude Lévêque, Hymne, 2006

ハンブルガーバーンホフ現代美術館を正面入り口から入ると、真正面に巨大な白い箱がどーんとそびえ立っている。ミニマルな外観からはこれから体験する作品がコンセプト・アートであることが期待される。箱の中への入り口は四隅にそれぞれひとつづつ、中はつるつるの黒いアクリルガラス板が貼り巡らされた空間。ブティックやデパートの化粧品売り場などの商業的空間を想わせる。天井からは無数の長三角形の鏡板が鋭い尖端を垂直に下に向けて吊られていて、それらは四方の壁際に配置された扇風機の風に煽られてゆらゆらと危なげにゆれる。鑑賞者はその下を歩くことになる。もしこれが落ちてきたら自分の頭に突き刺さるという不安感。

両目を孔けられた三角形の鏡板は個性を持たない仮面であり、それは私自身でもありまた知らない誰か他人でもあり得る。そして鏡には、それを覗き込む自分の姿が映ることは誰でも知っている。

二つの孔を持つ三角の形状は、その尖端が身体に記憶された鋭い痛みの感覚を与えるだけでなく、KKK団の白頭巾やアブ・グライブ刑務所で虐待を受けるイラク兵の写真をも連想させる。鑑賞者はこの一つの形体から二つの質的に異なる居心地の悪さを知覚する。ひとつは「痛い」という身体に訴える居心地の悪さ、もうひとつは「残酷な歴史」という連想を通して理性に訴える居心地の悪さといえる。

また連想といういものは鑑賞者個々の記憶や知識に応じて変化する。そしてその連想の契機となる形体は鏡という素材から成り、そこには鑑賞者の姿が映されることにより鑑賞者は自ずと作品に取り込まれ、作品の一部となる。
KKK団を連想させる鏡面に我々の姿が映し出されるという連想にたどり着いたとき、そして作家がフランス人であることを思ってはじめて、ホワイト・キューブの外面の白色と、内面の黒色はひょっとして人種差別、白人至上主義を暗示しているのではないかと深読みしてしまった。

この作品がその質を保持するのはしかし、そんな観者の連想を
全て疑問に付してしまうところ。こんなこと考えてしまったけど、本当にこれって作者の意図なんだろうか、こんな発想するのは私だけでは?と疑ってしまう。このように意味が重層していくのは淡々としたマテリアルの扱い方に原因があるのではないか? 均一に切り取られ吊るされた鏡版、無造作に置かれ延々とモーター音を出し続ける扇風機、建築素材による無機質な空間は、形体を作者の意図に拘束することなく、それぞれの鑑賞者による自由な連想を可能にする。日常の物質の組み合わせから連想が果てしなく続いていく・・・

















展覧会 INFO:
Claude Lévêque im Hamburger Bahnhof, Berlin
Art France Berlin: Claude Lévêque, „Hymne 2006“, Hamburger Bahnhof – Museum für Gegenwart – Berlin. 29. September 2006 bis 4. Februar 2007
作家紹介リンク:
http://www.hamburgerbahnhof.de/cont/contd/
参考記事:
http://www.artnet.de/magazine/reviews/haun/haun11-13-06.asp