2008年11月9日日曜日

ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』

映画を使った映画批判

ギー・ドゥボールの映画『スペクタクルの社会』をソニーセンターの地下にあるアルセナールで観た。


ドゥボールが1967年に発表した同名の著書『スペクタクルの社会』の著者本人による映画化。

思想の内容はまず置いておいて、感心したのは、思想を伝えるために映画という形式を取ったことが、文字を追って理解するのとは全く別な意味の構築・生成の仕方をしていること。
映画では、様々なフィルムの断片が繋ぎ合わされ、そこに著書の朗読 (本人による?) そが重ねあわされる。提示されるのは、商品のテレビコマーシャル、セクシーな女性達、高級車、戦争映画や西部劇映画、戦争の実録映像、など。

延々と哲学的内容の朗読が続く他は、ところどころに他の思想家の引用が字幕で表示される。

戦争がエンターテイメント化(スペクタクル?)された映画に続いて、市民の市街戦の実録映像が映される。そこに作家のテーゼ、「近代の生産条件が支配する社会では、生はスペクタクルの膨大な集合として現れる。直接体験されたものは全て、表象の中に消え去っていく」が重なる。

「表象」というのは、ある物(思想や体験など)映画やコマーシャルなどの媒体によって表現化されること。

全ての現実がエンターテイメント化され無となっていく社会を資本主義の悪として批判。そのアイデアの基本を成しているのがエンターテイメントとしての「映画」の存在だというのは、私の個人的意見。

その映画批判を、映画という形式で、映画館で観るのが、銀幕の外で起きる体験として重層さを与えている。

2008年9月14日日曜日

ポランスキーの『死と乙女』

ロマン・ポランスキーが75歳になるそうで、ここベルリンで最近取り上げられてるのを見かけます。

むかし映画館で観た「赤い航路」は楽しめたし、子供の時にテレビで観た「テス」は主人公がきれいででもかわいそう過ぎてちょっとトラウマ化してた。といことで、ポランスキー監督にはけっこういい印象があったのですが、「ピアニスト」「オリバーツイスト」と最近観たどれもダメだった。今から考えると「ナインスゲート」からダメは始まってたかも。

最近ちょっと話題だし、昔の作品はきっといいんだろうと思い、DVDを借りてきました。タイトルは「死と乙女」。でも1994年の作品で、そんなに古くはない (他の作品と比較して) みたい。

でも、よく出来てた。

登場人物は3人だけ (電話の声だけでの登場が他に二人ほど)。多少の戸外撮影を除くと、ほぼ完全な室内劇。原作は劇用の台本だったそうで、映画になっても台詞回しに物語進行が頼りすぎのところなどにその名残は残されています。

最初は誰もが、主人公の女性はつらい過去のあまり狂ってしまった、と思う。彼女の夫が思うように。

劇が進行するにつれ、主人公が過去にどんな経験をしたのかが徐々に明かされ、観客の感情も頂点に達し、本当にこの男が加害者であったのなら、裁かれるべき!と主人公に完全に感情移入してしまいますが、でも同時にこの男は本当は無実なのではという疑いも払拭できません。

でも断崖で死を目前にして初めて、男が自分の言葉で赤裸々に事実を語り終えたとき、私も女主人公と全く同じ脱力状態。もういいから帰って、という気持ちに襲われた。その辺の心理描写に説得力があるというか、心理描写が描写に留まってなくて観客の心理をも完全にフィクションの中に引きずりこんでる。で、観客の心理をほぼ代弁してるのが夫の行動。

断崖での告白もすごくおぞましい反面、悪ってどっから来るんだろう、と考えさせられる。男の平凡さもよく描かれていたし。

舞台設定・小道具も完璧。
南米のかつて独裁政権に支配されていた国、政治的活動をする弁護士の夫の立場。
冒頭で、ラジオから流れる事故報道に続いての政治犯虐待についての報道に聞き入る女主人公。
男が当時の加害者であることを証明する「死と乙女」のカセットテープ、ニーチェの引用、電気コードの使い方。

完璧な脚本とポランスキーの職人技の結晶でしょうか。
良質のフィクション。

2008年6月21日土曜日

原爆ケーキ

マイ=トゥ・ペレ展

スイス出身の女性作家マイ=トゥ・ペレ (Mai-Thu Perret) の新作展。タイトルは 「ビキニ」。


2年ほど前に同じくバーバラ・ヴァイス画廊 (Galerie Barbara Weiss) でみた展覧会 「黙示バレエ (Apocalypse Ballet)」 のその後を期待して行ってきました。

前回は変なマネキン人形 (写真)、土偶みたいな粘土作品、精神世界な感じのドローイング、架空の設定で書かれたテキスト、などが陳列されていてすごく変だった。

この作家にはまず日記形式で書かれたテキスト作品 「The Crystal Frontier」 が前提としてある。そこで描写されるのは、ニューメキシコの砂漠のどこかに外界から隔離された若い女性達で形成されたオルタナティブなコミューン。そのテキストと共に、彼女達が宗教儀式で使用する道具や瞑想のためのドローイング、祝祭のダンスなどがオブジェ形式で展開される。

今回の作品は、1946年のビキニ環礁における原爆実験、その後ビキニと命名された大胆な水着モード(Wikipedia) 、事件の後のパーティーでの原爆ケーキなどがリファレンス (照会) されてます。

「The Crystal Frontier」 との前回の展覧会のような 直接の繋がりは一見無い様に見える。
しかし、フェミニズム (?)、黙示録的な想定、砂漠の連想 (コミューンと原爆実験の場所) と、底に流れるテーマやイメージは同一な様。

この作家のようなメディアの組み合わせ方、例えば架空の物語を想定してそれに関連するオブジェを制作するなど、は最近なにげによく見かける。でも奇異さ、複合して絡み合うリファレンス、その複合性によって導かれるテーマの奥行きはこの作家が今のところ一番。

展覧会は 2008年7月13日まで
火曜から土曜、11時から18時までオープン
Galerie Barbara Weiss
Zimmerstrasse 88-89
10117 Berlin

2008年6月7日土曜日

ホモセクシャル犠牲者のための追悼碑

ブランデンブルク門からポツダム広場の間にあるのは、「ヨーロッパにおけるユダヤ人犠牲者追悼碑 Denkmal für die ermordeten Juden Europas」。その真向かいの林をちょっと入ったところに最近一般公開されたのが 「ホモセクシャル犠牲者追悼碑 Denkmal für die ermordeten Homosexuellen」。

ユダヤ人のコンクリート石塊が多勢なのに対して、こちらはひとりぽつんと孤立。素材、形体、大きさが 「ユダヤ・・・」 と同じなだけに、犠牲者はユダヤ人だけでない、その影に隠れているホモセクシャルな人達の存在も忘れないで!というメッセージが読み取れます。

そういった、ユダヤ人がさも自分達だけが犠牲者であったかの様な自己アピールに反発する文脈から発生したプロジェクトだけに、ホモセクシャルな男性だけではなく、ホモセクシャルな女性 (レズビアン) のための記念碑も作るべきだとの論争が起きたり、また虐殺されたドイツ系ジプシーのための 「シンティ・ロマ人犠牲者追悼碑」 もユダヤ犠牲者記念館の近くに計画されてるそう。

ところで、この 「ホモセクシャル犠牲者追悼碑」 には窓が開いていて、中には白黒の映像が映写されています。キスをする二人の男性。
オブジェ自体は60年代ミニマルで、エンドレスな Kiss はウォーホル。

ベルリンには、様々なイデオロギーによる慰霊碑・記念碑がたくさんありますが、美術史から援用した造形言語を使いながらも、かなり分かりやすいメッセージを持つのがとても気になります。

2008年5月22日木曜日

Gegen ネオナチ!

5月8日発売のDIE ZEIT。(ツァイト) これは毎週木曜に発売される新聞。新聞とはいっても、内容は週刊誌並み、いやそれ以上。

先週、大手ディスカウント・スーパー LIDLE (リードル) の下請けパン工場にアンダーカバー・ジャーナリストを送り込み、LIDLE の安売りシステムを叩き切ったと思ったら (そのおかげで私二度と LIDLE で買い物できない人間になってしまいました)、今週はネオナチが日常生活のあらゆる場面に生息してる!との大警報。

ネオナチといえば NPD (エヌ・ペー・デー、ドイツ国家民主党: Wikipedia) 。このNPD が、行政内部はもちろん、市民相談所かなんかに化けて社会的弱者の味方になってみたり、子供向けのお祭り開催したり、大学の構内にもいるし、あらゆるところでチャンスを狙ってるんだそう。

そしてこんなWEBがあります。http://www.netz-gegen-nazis.com/

知らないうちに実はNPD に加担してたなんてことにならないためのアドバイス、子供がネオナチになってしまった母達の掲示板、などなど身近なところから始める政治的生活。

なかなか興味深いのが、外見からネオナチを判断するための記事。
スキンヘッド= ナチはもう昔の話。最近は地味なスポーツウェアに身を包み一見普通人と区別が付かないのだけれど、それでも仲間を識別するための認識コードが実は隠されているのだそう。
ナチブランド Thor Steinar
好んで聞かれる音楽、CDのレーベル
88 (ハイル・ヒットラー Hail Hitler Hは8番めのアルファベット)、18 (アドルフ・ヒットラー Adolf Hitler A=1 H=8)、168:1 (1995年にアメリカで起きた反ユダヤテロにより168人が死亡) などの数字記号

正しいジャーナリズム。私、DIE ZEIT のファンです。

2008年5月21日水曜日

西アート・東アート

ところで

東ドイツ出身の30代後半は特殊。
壁の崩壊がちょうど学校の基礎教育が終わって多感な真っ只中に (当時15-17歳くらい?) 東独が消滅し、それまでの教育が意味を失くしてしまったから。しかもいきなりの東西統一で、みんな同じドイツ人になれたのは表面的にはリベラルな最善策だったかもしれないけど、実際は、優秀なドイツ人 (西) と時代遅れな世界観を身に付けたドイツ人 (東) という二種類のドイツ人種が誕生してしまっただけ。

この旧東西ドイツ人の日常レベルでの相克をみてると、とりあえずはお互い別々の国家でもう少し居た方が良かったのではと思ってしまう。

(こんなことは日本語だから書けます。ドイツ人には言えない。彼らも苦労してるので。)

この30代後半というのが転換ポイントで、その上の年代だともうしっかり自己アイデンティティーが形成された後に壁が崩壊 (何言っても聞く耳持たない。それはそれで人格安定してていい感じ)、それ以下だともう昔の断絶は意味を失っててかなり東西混ざってます (若ければ若いほど)。この問題の30代後半の方々はしかし、西は西同士、東は東同士のみのお付き合いの範疇で生息してて、よくよく観察してみると隣り合わせに生活しつつも全く混ざってません。びっくりするほどです。

そう、それで美術に因んだ話。

こんなことがあった。ある旧東ベルリン人とハンブルガー現代美術館に行ったとき、その人はウォーホルとかミニマルとかを絶対に認めない。見れば見るほど不機嫌になってくので最後にはこっちが逆ギレ。別に私はウォーホルを弁護してる訳ではなく、その 「決して認めない」 で人の楽しみの邪魔をする態度に腹が立って、だったら付いてくるな、と心から思った。

そしてちょうどその直後に新国立ギャラリーで旧東ドイツの美術展 (戦後から壁崩壊まで) があって、そこにもその同一人物と (懲りてない) 行ったのだけど、そこで彼は喜々としてとても幸せそうで、たくさん説明してくれて、ありがたかった。

それにしても、西から来た「優秀な」ドイツ人たちはもちろんそんな展覧会なんて行かないんだろうな、と思う。(ごめんなさい。でもそう見える) 彼らにとってアートの中心地は、パリ・ロンドン・ニューヨーク。ドグマに支配され、閉鎖的で、洗練されてない東でかつての、そして現在の同国人が同時代に何を見てたかなんて、どうでもいいっていうか、見たらやっぱり批判しちゃうし、そうするとまるで自分が奢ってるようで自己嫌悪に陥るからやっぱり見たくないもの。

そう、何を言いたいかと言うと、先週 DIE ZEIT でリヒターについて記事を読んで、今日の「ドイツ美術」は、決してアメリカを中心とする西側世界と西ドイツによる産物ではなく、東と西の対決によって成り立ってると確信したから。

旧西ドイツと旧東ドイツ、表面的には溝が深そうに見えるけど、実はやっぱり一つの国なんだ、と考えることが出来たから。

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戦後ドイツ美術の大御所のひとり、ゲルハルト・リヒター。美術愛好家の間だけでなく、国民的にその名は轟いています。最近ではケルン大聖堂に設置されたピクセル画像状のステンドグラス (写真) が公開され話題になりました。

そのリヒターがドレスデン美術アカデミー時代に制作した壁画が、ドレスデンの衛生博物館 (Hygienemuseum) の白壁に塗り込められたまま眠っているそう。

こちら衛生博物館 2008年現在
こちら1979年東独政権下で塗りつぶされる前の状態。写真右の扉が同じです。

1961年西独への亡命の折、当局の目をくらますためそれまでに制作された作品のほとんどが東独に置き去りにされた。画家自身は亡命後それ以前の全作品の複製をきっちりとまとめて封印し、一方東独に残されたリヒターの壁画計3つは全て東独政権下で抹消された。

亡命から30年後すでに大芸術家としての名声を確立した1994年にリヒターの元にドレスデンから一通の手紙が届く。

その頃すでに東独政権は崩壊、ドイツ再統一後、衛生博物館は新しく編成され建物も修復されることに決まっていた。そこで修復のための資料集めの際、1956年にドレスデン芸術アカデミーの卒業制作として描かれた真正のリヒター、作品サイズ63.54㎡、タイトル「生の喜び (Lebensfreude)」 がモルタルの下に完全な形で残っているらしいということが発見された、という報告が手紙の内容。

衛生博物館の書庫から見つかった記録簿には、1979年に文化財保護の観点から、歴史的価値の高い衛生博物館の空間をオリジナルの状態に戻すためG.リヒターの壁画を白く上塗りすることが決定されたとあり、またそこには画家がすでにドイツ民主共和国から亡命しており、芸術作品として保存する価値はない、との付記も見られる。

1994年のドレスデンからの手紙は、リヒターに15年間封じ込められていた自身の作品を再発掘する事についての意見を求めるものだった。リヒターは、この壁画にそれほどの労力をつぎ込むほどの価値があるとは思えない、個人的には賛成しかねる、と返答をし、それ以降この件からは距離を置いている。

リヒターが東独時代の自己の作品を否定する態度を取り続けるのは、亡命後の画家としての出発点自体が、東独当局による芸術政策の否定であったからだと思われる。

1951年、リヒターはドレスデンから西側のカッセルへと、ドクメンタ II を訪ねている。当時はまだ列車での国境越えが可能だった。アルプ、ベックマン、ブランクーシ、デ・キリコ、デ・クーニング、クレー。当時のドクメンタは戦後ドイツにおける抽象絵画の祭典であり、またポロック、ニューマン、ラウシェンバーグ、ロスコに代表されるようなアメリカ人作家が巨大なフォーマットとラディカルさで圧倒した国際展でもあった。

後のインタビューでリヒターは実際にこれらの芸術が東独を去った理由であったと語っている。

一方、「生の喜び」。
湖のほとりの(社会主義的?)楽園風景。草木、ボート、遠くに見える工業地帯を背景に、戯れる若い男女、水浴から上がる女、濡れた体を乾かす裸の男、ダンスをする子供たち。画の主題は左から右へと流れていき最後に鳩が飛び交う中に描かれた若い家族像で終わる。画かれた人物達が皆似たような外見的特徴を持つことから、若い男女の恋愛から家族、そして生まれて来る子供たちへと循環する人間の生を思わせる。
「空間の基調を晴れやかで明朗、それと同時に安らかでさわやか、即物的」に造形する、というのが当時の当局からの依頼だった。西独への旅によって壁画と壁装飾の違いが明らかになった、と画家は語る。東独では後者のみが取り上げられている、と。

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写実的な手法で描かれるフォト・リアリズムと純粋な抽象絵画の間を常に行き来する表現方法で知られるリヒター。このように東独イデオロギーによる 「社会主義的リアリズム」 が激しく否定されつつも後のゲルハルト・リヒターの制作活動に多大な影響を及ぼしていることは間違いないだろう。リヒターに代表される 「ドイツ美術」は決して西側世界観の勝利から生まれたものではないということ。

それとはまた別に、リヒターの過去との係わり合い方、自身の暗い過去から距離を取る事で克服しようとする態度は、まるでナチスドイツや共産主義的全体主義など歴史のトラウマを抱えるドイツという国自体の一モデルのようにも見える。

これらふたつの観点から、リヒターという画家をドイツ的な現象と捉える時、ドイツという国は内面で分裂してるようでも、やはり引き裂かれてるという点に置いてこそひとつなんだと思う。それをリヒターというひとりの画家に見た気がしたから。

2008年5月20日火曜日

ミースの内と外

前述のように、ノイエ・ナショナルギャラリーの展示がいいと思ったのは、出品作品がそれぞれミース・ファン・デル・ローエのかの有名な建築と対話してるから。

透明な建物の内と外に設置されたオブジェ。

ガラスの一部がペイントで曇らされ、作品になってる。
これはこれでシンプルでおもしろいと思ったけど、残念ながら、単独の作品かミクスド・メディア・インスタレーションの一部かは、作品からは分かりませんでした。

それとはうって変わって、下の3枚の写真に見られるインスタレーションは、技法がばらばらにもかかわらず、同じコンセプトに基づく作品ということが瞭然としてました。

ミースのガラスの外壁には、ナイロンのいかにも安そうなカーテン。レトロな模様付きです。

その向かい側、ミースの換気装置 (緑色の大理石製) には、大理石板が何枚か立て掛けられており、その版上には、絵の具で壁紙のような装飾模様が手作業で描かれています。

ミースの換気装置の大理石が自然な模様を持つのに対して、こちらの模様は人工的。

カーテンが工業製品なのに対して、大理石版の装飾模様は手工芸的。

相反概念による構成が徹底してます。

描かれた壁紙模様が、ナイロンのカーテンと共にまるで住居内のような雰囲気 (プライベート) をかもし出し、美術館から 「オフィシャルな場」 という機能を剥奪しようという意図が感じられます。

大理石の前には、仮説の展示パネルが置かれ、そこには壁紙模様のドローイングや、インテリア雑誌からの切り抜きコラージュなんかが掛けられていました。

カタログによると、この美術館が建てられ、初めての展覧会はモンドリアン展で、ミースのコンセプトでこのガラスのホールに展示パネルが設置されたのだそう。

どういう脈絡かは私にはいまいちぴんとこなかったけど、とにかくそのエピソードに作者はレファレンスしたかったらしい。

モンドリアンだから、ミースとひっくるめてモダニズム批判かしら。壁紙模様がテーマだし。ミースの建築にアンチテーゼ示してるし。

作者はMarc Camille Chaimowicz、フランス人らしい 。タイトルは 「For MVR」。MVR はどう考えてもミース・ファン・デル・ローエでしょう。


見ただけではわからないようなエピソード (例えばモンドリアンの展覧会とか、アイリーン・グレイとコルビュジェの相克とか) に頼りすぎの感はあるけれど、みなさん、本当にいろいろ考えてて関心します。

美術は、ただ美しく佇むだけではなく、「正しく」 あろうとしてるようです。

ビエンナーレ メイン会場

ノイエ・ナショナル・ギャラリーの展示がなかなか悪くない (すごいドイツ的な言い回し) というのは、ミース・ファン・デル・ローエの透明でシンメトリックな建築との意識的な対峙が見られるから。
キーワードは内と外、左右対称性、表層と透明性 etc.

ギャラリーの一階ホールにはクローク・ルームが左右対称に二つ設置されています。来場客が各自手荷物やコートを預ける所です。
今回この左右二つのスペースを利用した展示を発表したのがベルリンの女性作家 Susanne M. Winterling。


左右二つのクローク内には、鏡合わせの状態で同一の展示がされています。展示物は、8ミリ映画、白黒写真、コラージュ、オブジェ。

左右対称の展示には、左右対称に多重露光された女性ポートレート。

カタログを読んでみるとなかなか面白いコンセプトが書いてあります。
以下要約。

タイトルは Eileen Gray, The Jewel and Troubled Water。アイルランドの女性デザイナー、アイリーン・グレイ(上写真 1878−1979)が 作品の中枢に置かれてる。彼女が1924−28年にかけて南フランスに建てた個人宅 maison en bord de mer E.1027 に、モダニズムの巨匠ル・コルビュジェは感嘆し、内密に何度も足を運び、しまいには本人の許可無く住宅内に壁画を設置してしまったそう。(というのがカタログ文章の翻訳ですが不思議な話ですね…)その壁画には女性のヌードも描かれており、グレイはこの行為を蛮行、ある種の凌辱と受け取りました。
また、二人の間の軋轢はそれぞれの建築家としての自己理解とも関わっていました。
ル・コルビュジェが汎的に使用可能なモデュロール・システムを用いて仕事をしたのとは対照的にグレイは、建築を構成する各要素は個別の特徴を持ち、また人体の器官に似た機能を持つと考えました。
今回ビエンナーレの出品作で作者は、コルビュジェと並ぶもうひとりのモダニズムの巨匠ミースの建築内に左右対称に設置された二つのクロークをグレイに因んで人体内の肺とみなし、また作品を展示することで元来の機能を剥奪、コルビュジェがグレイの住宅で行った蛮行に対する返答としています。この返答の仕方は、フェミニズム的な思考や既存物を占有することによる意味の変換など、様々な側面を持ちます。

クローク内。グレイの住宅のモデルが中央に据えられ、奥には8ミリ映画が延々と映写されています。ガラス板に溜った水滴が、向こうに通り過ぎる車のライトに照らされています。これは、ガラス張りの新国立ギャラリーの内部からの夜の風景。滴り落ちる水滴は、内外の気温差で建物内の湿気がガラス板上で冷却されたもの。ここで、作家のクロークを肺とする想定と、グレイのまるで生き物のように有機的に呼吸をする建築コンセプトとが重なります。

男性主義に支配されたモダニズム建築をグレイのコンセプトに沿って有機的に捉える。


本来のクロークが作品化されてしまったので、コートと荷物はこちらの彫刻作品にひっかけられます。今度は自分の持ち物が作品化。

見張ってるお姉さんが大変そうでした。

2008年5月19日月曜日

ベルリン・ビエンナーレ

第5回ベルリン・ビエンナーレに行ってきました。
会場がベルリン市内に全4箇所、ノイエ・ナショナルギャラリー (Neue Nationalgalerie)、クンストヴェルケ(Kunstwerke/ KW 巷ではカーヴェーとも呼びます)、クロイツベルクの彫刻公園 (Skulpturpark Kreuzberg)、そしてシンケル・パビリオン。
ま ず最初に家から近いこともあってノイエ・ナショナルギャラリーへ。まずまずの印象。かのミース・ファン・デル・ローエ設計の建築に支えられた出来ともいえるかも。。。 という予感は、後日訪れたKW で裏付けされることに。KW 最悪。この印象は前回のビエンナーレ以降どんどん深まる一方です。
どうしてKW はだめなのか。
理由を考えてみた。
1. お金がないので有名な作家を呼べない。
2. キュレーターの嗜好に偏りすぎてる。
3. 建物がだめ。(もともとは普通の民家?狭くて暗くて気が滅入る)
ここは、とにかく他のギャラリーや美術館なんかとは、全く違う法則に支配されてることは、確か。
お金がないという理由もあまりぴんとこない。中庭の重層的に反射し合うダン・グレアムの鏡張りカフェなんかは素敵だし、その辺にお金かかってることは確かだし、展覧会企画も企画自体は半ば公的な印象を与えるしっかりしたものが多い。
主任キュレーターがびっくりするくらい若い人というのは聞いたことがある。2-3年前で当時23くらい? 詳しくは忘れてしまった。
実際同じキュレーターが (今回は男女二人組) 企画してるし、ノイエ・ナショナルギャラリーがオッケーでKW がNG って、おかしい。ということは、やっぱりハコのせい?
とにかく、KW は不思議。
そんなKW の主催するビエンナーレ。
開催前は鳴り物入りで各メディアで報道されてましたが、以外と人の入りは少なさそうです。

ノイエ・ナショナルギャラリー正面玄関。
ミース・ファン・デル・ローエの設計した、ガラス張りの美術館。この建物が有名なのは、展示スペースが地下にあって、外から見える地上階部 (日本でいう一階) は見事にただのがらんどうホールになってるから。すてきです。
その外部からまる見えの地上階ホールが今回ビエンナーレ会場です。
手前こぶしのレリーフと、軒から下がってる旗が政治的でベルリンらしいです。

2008年1月29日火曜日

1970年1月23日東京で生まれた俺

ヨナタン・メーゼ

地下鉄で検札が来てはじめて、定期券を学校の図書館にあずけ忘れていたことに気が付きました。また罰金7ユーロ。私、この罰金は決して誇張ではなく計10回は払ってると思います。一度なんか、地下鉄でつかまって、つかまったという証明書を見せればその日中は乗っても大丈夫という話でSバーンに乗ったら管轄が違からと1日で二重の罰金を科せられたこともあります。

今回、地下鉄でつかまったということは、S バーンには乗れないので仕方がないので歩いて学校まで行こうといつもは通らない道を通ったら最近雑誌とかで見かけるヨナタン・メーゼ (Jonathan Meese) の展覧会の前を通りかかりました。


ベルリンの博物館島の真向かい、現在再建中のエジプト博物館の川をはさんだ正面にいつの間にか新しいギャラリーが出来ていました。

CONTEMPORARY FINE ARTS (ギャラリーHP)。これって、Sophienstrasse の中庭にあったギャラリー。引っ越したんだ……家賃高そうだし、気合入ってる。

バゼリッツの展覧会と同時期に開催、バゼリッツの誕生日が1938年1月23日、ヨナタン・メーゼの誕生日が1970年1月23日。だから展覧会タイトルが1970年1月23日で、しかも先週の1月23日のオープニングパーティーをいろんなメディアでかなり大々的に宣伝してたのを今思い出す。


ここはドイツではあるけれどガンダム世代と表現したらいいのか、作品はアンドレアス・ホファー (Andreas Hofer) と同系統。 プラモデルやファンタジー系物語が好きそう、という意味で。アンドレアス・ホーファーが自分というアイデンティティーを虚構の世界で遊ばせてアート特有の不可解さや不明瞭さを醸し出してるのに比べて、こちらの方は長い髪や怖い目、奇行などいわゆる 「ゲージュツ家」 といった生身の自己アピールが強烈。すなわち、単純。

展示作品は一貫してダースベーダーみたいな鎧兜のおばけの肖像。鳥のような怪物は神話の世界やSF映画を連想します。絵の背景や彫刻の本体には紋章や国旗のモチーフが書き込まれています。独裁者なんだそう。男性器が必ず強調されてて、意味をなさないせりふを吐きます。

赤と黒の油絵の具にキャンバス。彫刻の方はブロンズ。使用する素材は、エキセントリックな芸術家像に比べて、とっても保守的。

全ての作品に描き込まれている記号のようなものが、日本の日の丸にしか見えなくて(例えば上の写真の絵の左上)どうして?と思っていたら、今ネットで作家が東京で生まれたという記述を発見。ということはこの一連のポートレートはひたすら自分像なんですね。

絵画作品には全て 「JM08」 のサインが。ということは全て今年に入ってから描いたんだ。すごいな。こんなのだったら出来るか。

こちらがヨナタン・メーゼ


そしてこちらがドイツの巨匠デューラーの自画像

芸術家の自意識の高さを示す、キリストとしての自己演出。メーゼの芸術家としての本質は「芸術家であること」のみにあり。

Jonathan Meese "23. Januar 1970"
2008年1月24日から3月8日まで
@ CONTEMPORARY FINE ARTS
Am Kupfergraben 10
10177 Berlin

2008年1月18日金曜日

採光と瞑想効果

ノイエ・ヴァッへ

ベルリン一の目抜き通りウンター・デン・リンデンにあるノイエ・ヴァッヘ (Neue Wache: 新衛兵所)。もともとはその名の通りプロイセンの衛兵所でしたが、現在は度重なる戦争の犠牲者のための慰霊碑として機能し、多くの観光客が立ち寄ります。


成り立ちについて簡単に説明を。

この建物はもともと、1816年にプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世が、建築家カール・フリードリッヒ・シンケルに衛兵所として設計させたものでした。

ドーリア式の柱から成るの柱廊玄関をもつこの建物は、パルテノン神殿などの古代ギリシャ建築に範をとる「古典主義」という様式に属します。

シンケルは設計の際に、建築物が他の一切の形体や人物をも想起させず、そのかわりに抽象的な観念のみを想起させることを意図しました。それはこの「古典主義」という普遍的な建築様式が、過去に対する「感覚」のみを人に呼び起こすことを意味しています。

設計当時、シンケルは決して、建物が戦争の犠牲者のための慰霊碑として使用されるとは考えていませんでした。ただ彼の「抽象的感覚のみを想起させる」建築といった、用途に合わせて外観を明確に規定することをしないコンセプトの曖昧さが、後世における慰霊碑への用途変更を簡単にしてしまったのかもしれません。

1918年にドイツ帝国が崩壊、ワイマール共和国が成立した後、1931年に建築家ハインリッヒ・テッセノウ (Heinrich Tessenow) はプロイセン州政府から、この建物を第一次大戦の戦没者慰霊の場に改造するよう依頼されました。彼は内部を仕切る壁を取り去り、全体に屋根をかぶせ、その屋根の中央には円形の開口部を設けてそこから光が降り注ぐように設計しました。

1931年改築後の室内。中央には2メートルの高さの黒い花崗岩の台座、その上に金とプラチナの箔が施された桂冠。

この改築以降常に、この本来の「衛兵所」は、訪問者に瞑想を促す目的の追悼の場として機能し続けています。

第二次大戦後の東独時代には「ファシズムと軍国主義に犠牲者のための追悼所」とされました。

ガラス製のプリズムの中には常時炎が灯されており、またここには無名の強制収容所の犠牲者一人と無名の兵士一人の死体が祀られていました。壁には東独の国旗が。

ドイツ再統一後の1993年以来、この建物はドイツ連邦政府の中央追悼施設として「国民哀悼の日」の式典会場になっています。

現在、中にはケーテ・コルヴィッツのピエタ像が設置されています。


丸くくりぬかれた天蓋からの採光はローマのパンテオンを思い出させます。

ミケランジェロ設計のパンテオンの天蓋

こちらがパンテオンの外観ですが、のちに改装された内部の天窓だけでなく、ギリシャ建築風のフリーズや円柱までも、シンケルのノイエ・ヴァッへの外観と完全にクロスしています。外観はシンケルのオリジナルのままで、全く手を加えていないにも関わらず、一部分の変更のみで、プロイセン特有の新古典様式の衛兵所が、別のコンテクストに取り込まれていってしまうことが面白いと、私は思うのですが、どうでしょうか。

ところで、話はずれますが、穴を開けられた天蓋の手法は、現代においてもアートの言語として使われることが多く見られますが、そういった場合、瞑想あるいは内省をうながす効果をねらうことが定石のようです。
リベスキンドが設計したベルリン・ユダヤ博物館の「ホロコーストの塔」

スイス山中にあるジェームス・タレルの作品「Skyscape Piz Uter」

大衆は戦争映画がお好き

ジョナサン・ホロヴィッツ展

ベルリンでTOPクラスのギャラリーが集まる場所、ツィンマー通り (Zimmerstrasse)。 そこで開催されたニューヨークを拠点に活躍するヨナタン・ホロヴィッツの展覧会『People Like War Movies』を見ました。

ギャラリーのドアを開けるとそこにはポップコーン・マシンのオブジェが。
これももちろん作品なのですが、ここでは、ポップコーンは自由にもらえます(おいしくない)。

ガラスケースには展覧会タイトル Poeple Like War Movies と書かれており、ポップコーンの紙袋には元アメフト選手でアフガニスタンで戦死した英雄、パット・ティルマン (Pat Tillman・参考) の肖像が印刷されています。

メディアにおけるスパースターと戦争。

ポップコーン・マシンのオブジェの脇を通り過ぎ、次の展示室に入ると、暗い室内でジュースの自動販売機がネオン光を放つ。自販機をよく見ると、現実では決してありえないペプシとコカコーラの組み合わせが。
実際に1ユーロ硬貨を投入してコーラかペプシかだけを選べます。


ここでも市場経済におけるという意味で「戦争」の概念が重なってきます。

実は、1ユーロを入れて買ってみたのですが、実際に買おうとするとどっちに決めたらいいのか、ものすごく迷いました。どっちでもいいから、という理由からですが。

美術史的観点から論じるのであれば、これらのふたつのオブジェには50年代ポップアート美学が引用されているといえます。しかしこの時代はまた、テレビや映画などのマスメディア&エンターテイメントが発達した時代でもあります。


ポップコーンとコーラを手に、会場の奥へ進むと次にあるのは映像作品。エルビス・プレスリーの映像とリドリー・スコット監督の劇場映画『ブラックホーク・ダウン』の断片を繋ぎ合わせた作品です。

このモンタージュは、1958年のエルビス・プレスリーの兵役と、1993年にソマリアで戦死した兵士クリフ・エルヴィス・ウォルコット(映画『ブラックホーク・ダウン』の登場人物)の二人の人物をかけあわせています。

また、モンタージュ内では、エルビスのコンサート風景に交えて彼の徴兵についても言及しており、そこでも展覧会のテーマである「戦争」とリンクしていきます。


ポップコーンを食べコーラを飲みながら映画館でプレスリーと戦争の映画を観たあと、さらに奥の部屋に進みます。

ここであっと驚くどんでん返し(?)が。

この部屋の壁面 (入ってから後ろを振り返ったところの壁面。ちょうど映画スクリーンの裏側)には、壁一杯に惨殺された人間の死体が引き伸ばされて貼られています。この、大衆ポップ文化の 「裏側を見せる」 という演出に、ギャラリーの空間を利用する言語感覚はこちらで見るアートの典型でもあります。

また、死体写真のそばには、この写真の出所を説明する小さなメモが一枚掲げられています。その説明によると nowthatsfuckedup.com というポルノサイト(現在は閉鎖)が、クレジットカードの使えなかったイラクやアフガニスタンなどの戦地にいる兵士達に、クレジットカードでの支払いの代わりに戦場写真を提供することでコンテンツ閲覧を可能にし、その写真の内の一枚を引き延ばしたものがこの死体写真だそうです。

People Like War Movies. 大衆は戦争映画が好き。でもコーラもペプシもエルビスも大好き。そして現実の戦場では、お金と性欲と残酷写真が交錯する。


Jonathan Horowitz/ "People Like War Movies"
September 1 - October 20, 2007

Galerie Barbara Weiss
Zimmerstrasse 88-91
10117 Berlin

2008年1月16日水曜日

「ヒロシマ」ブランドにもの申す。

いわゆる現代日本の美術、ということでメイドインジャパンの作家なり作品なりがドイツ (他の外国知りません) で紹介される際によく出くわすのが、ヒロシマという歴史的事件を背景に作られた作品であるとか展覧会コンセプトであるとか、広島出身の作家であったりとか。

私の記憶するところではベネチア・ビエンナーレの日本館でも近年度々ヒロシマがテーマに掲げられた記憶があります。同じビエンナーレでイスラエル館が「ホロコースト」しか話題にしないのと共通するものを感じます。

この「またか」と多々感じた体験を踏まえ、私はこういった事象をアートにおける「ヒロシマ」ブランドと名付け、批判の体勢で臨んでいきたいと考えます。

批判するからには、代替となる考え方を提示しなければとも思うのですが、今のところ特にありません。

この事象は、別に誰が悪いわけでもなく、ただ、自身を神話化させようとする「芸術家」の特性とも関係があると思うし (参考: デューラーの自画像)、日本人がドイツ人に固定観念を持っているのと同じようにドイツ人も日本という国を連想するにあたって数少ないイメージしかないわけだし、受容側の問題でもあると思います。

が。

すっかり忙しくしてたら

マイク・ケリーを見逃してました。
MIKE KELLEY/ KANDORS
Jablonka Galerie
September 29 - December 22, 2007
Kochstrasse 60 Berlin