2007年2月28日水曜日

L.A.CRASH

「車」 を介した間接的な因果関係

アメリカには一度も行ったことがないのですが、話に聞くところによると、みなさんが車を持っているそうで。一戸建ての家から外へ出るときはいつも必ず車、仕事に行くときはもちろん、買い物に行くときも。なので近所の人と道端でばったり会って立ち話、なんてないそうです、聞いた話によれば。それから、ドイツに住んでると思いもよらないことなのですが、人種ごとの住み分けがずいぶんはっきりしているそうです。
この映画で見る限り、車の中は極プライベートな空間らしい。車の衝突事故、盗難、警察による取調べ、ヒッチハイクなどによって初めて、人々はそのプライベートな空間から一歩外に出て (あるいは他人を中に入れて)、見知らぬ人同士が接触することになる。

2007年2月26日月曜日

セックスワーク/ 芸術 神話 現実

社会の認識のしかた

クロイツベルクにある NGBK (Neue Gesellschaft für Bildende Kunst) という非営利のギャラリー主催の展覧会。ここは普段から社会学的アプローチに偏ったコンセプチャルな企画展が多いんだけれど、今回もタイトルは 「セックスワーク」。「性を売る」 こと、またはもう一歩踏み込んで 「性」 そのものを、社会的問題あるいは個人の内的問題として扱っている美術作品から構成されている。問題点への切り込み方が実にさまざまな中で、目に留まった作品をピックアップ。

「ワーキング・ユニット Z01」 Tadej Pogačar, Anja Planišček
これはあらゆる場所に仮設できる売春のための簡易施設なんだそう。性的欲望は押さえつけずに合法に解放させた方が得策であるとし、社会において売春が安易に肯定されていることをアイロニカルに指摘する。


「メモリアル」 クリスティアーノ・ベルティ Christiano Berti
合計18枚の写真シリーズ。1993年から2002年の間にイタリア、トリノ郊外で計19人の売春婦が就労中に殺害された。過去に惨事の起こった現場を探し出し、その風景を記録する。写真が撮影されたのは2001年から2002年にかけて。展覧会場ではジェンダーの学者が記事を書いた読み物が配布されていてそれによると、売春婦を求める男性客は何かしらの社会的なプレッシャーを受けていて、そのプレッシャーを買春を通して解放したいんだそうな。例えば男として認められたい、とか。そういったプレッシャーをエロスとして昇華できなかった場合に、その暴力が誤った方向へと走る危険が伴うのだそう。悲惨な出来事にも関わらずベルティの風景写真にはある種の距離感が漂う。気に留めることなく通り過ぎてしまう空虚な風景はまるで、そんな狂気に走る瞬間の理性の及ばない心のふとした間を見ているよう。


セックスやSMプレイを通した自己認識、自己実現をポジティブに表現している作品がいくつかあった。 (下の写真のビデオ作品の作者は誰だかわからなくなってしまいました。ラテックスのスーツの女性が作家らしい。) ばりばりのコンセプチャルな作品に囲まれて、ブブ・ド・ラ・マドレーヌさん BuBu de la Madeleine のビデオ 「売女日記/ お客と一緒に撮るポルノ 」 の詩的、私小説的な映像作品は目をひいた。

ところでビルギット・ハイン Birgit Hein の16ミリ映画 「Baby I will make you sweet」 をまた発見。個人的に好き。女主人公がジャマイカに旅行し、そこで知り合った黒人の若者との情事をあけっぴろげに記録。最初の車窓からのドイツの雪景色からジャマイカの熱帯林へと替わるところが好き。それと映像が荒れててきれい。あとこの人が好き。


「神のうつわ」 クララ・S・ループリッヒ Clara S. Rueprich
暗室内に向かい合わせに映写される二つの室内風景。教会と売春宿。修道女と売春婦の独白が同時に聞こえる。キリスト教ではイエスを産んだ聖母マリアは「神のうつわ」 とみなされることから、作家は修道女と売春婦に同じ質問をする ― 神、お金、肉体、社会との関係。精神的な存在である修道女と肉体派の売春婦。 「私の魂は肉体の形をとってしか他者に伝達することができません」 この修道女の言葉は、修道女と売春婦、社会において両極に位置する女性の役割が、実は非常に類似することにも気づかせる。一つの社会の中に作り上げられる2種類の女性像。それは、ひとりの女性の中に存在する聖性と俗性でもあり得るし、ひとりの人間の中に存在する精神性 (修道女) と肉体性 (娼婦) でもある。お互いはお互い無しでは成り立たない。精神は肉体に宿り、肉体は精神を内包する。


ドラッグ中毒の女性と一人のおかま。エヴァ・マリア・オッカーバウアー Eva Maria Ocherbauer の壁面作品。


「家」 ガブリエレ・ホルンダシュ Gabriele Horndasch
スライドに手作業で刻まれた単語。 Steckdose (コンセントの差込み口) Sumpfblüte (沼地に咲く花) Stundenbraut (時間制花嫁) Täubchen (小鳩ちゃん) Tempeldienerin (寺の侍女)、などなど娼婦、売春婦の類語は600にも及ぶ。そのような言葉の置き換えは、肉体行為そのものの生々しさを覆い隠し、性を商品としてみることを促しているんだそう。



それにしても、作品を鑑賞するというよりは、読み取りに忙しかったです。面白いんだけど。ところで、こういうNGBKがよくやるような、社会の姿を新たな視点から改めて認識させようとする行為を芸術の使命とする考え方って、カール・マルクスの芸術論とは関係あるのでしょうか?この疑問はもうちょっと私の中で暖めておく。

展覧会: SEXWORK. KUNST MYTHOS REALITÄT

会場はベルリン各地計3箇所

SEXWORK 1: Neue Gesellschaft für Bildende Künste e.V.

SEXWORK 2: HAUS am KLEISTPARK

SEXWORK 3: Kunstraum Kreuzberg/ Bethanien


3つの展覧会場にはそれぞれこんな勉強部屋が設置されていました。資料を閲覧できます。

2007年2月25日日曜日

もうすぐ春


オストクロイツ駅近くのある曲がり角にて。

旧東ドイツの公共オブジェはこんなほのぼのとした庶民派ものが多いです。メルヘンのモチーフなんかがよく見られるのは、労働者が主権を持つ国家では政治的支配者の像なんかは立てまいという社会主義の考え方が、多かれ少なかれ影響してるらしいです。でもその同じ思考回路から、城とか教会などの歴史的建造物が壊されてしまったりもしたらしい。ベルリン大聖堂の前に建っていた城とかライプチヒのパウリーナー教会とか。

ベルリン市城は戦後の社会主義ドイツにおいて、プロイセンの絶対政治を象徴するからと非難され取り壊され、その跡地には「文化宮殿」 と呼ばれる市民のための文化複合施設が建てられた。その旧東独の文化宮殿はドイツ統一後またもや取り壊され、現在はまたかつての城をそこに再建しようと一部の人々が資金を集めたりしてがんばってるらしい。でもその文化宮殿を取り壊す考えと、かつてベルリン城を取り壊した考えの根っこは全く同じでは、という疑問もわく。しかもそこにまた昔の城を建てるとは。

ライプチヒ大学の正面、レーニン・マルクスのレリーフの掛かる壁面にはそのレリーフを覆うように赤い三角形の鉄枠が架けられている。その形状は、かつてそこに建っていたパウリーナー教会の屋根のかたちを模す。パウリーナー教会はもともとライプチヒ大学付属の教会だったが、マルクス主義の考え方から学問 (科学) と宗教とが一体となっていることが批判され、取り壊されたのだそう。ここも再建運動が起きてるらしい。

ついこの間までの過去をとことん否定してもみ消そうとやっきになり、それよりさらに遡った過去にここまでこだわるのって、ちょっと考えが逆転してるようでこわい気が・・・。でもどうなんでしょう。古い町並みを歩くのは (それが作り物とわかってても) やっぱり落ち着きますし、東ドイツのプラッテンバウはキッチュとして大目にみてもやっぱり醜いことが多いですし。

2007年2月23日金曜日

ニュートン- ラシャペル- ナクトウェイ (+ ドゥパルドン)

写真 = 現実?

ベルリンZOO駅の裏側のヘルムート・ニュートン写真美術館に行ってきました。
一階の展示場には、ニュートンの所持品、服、部屋の再現、撮影風景の記録ビデオ、展覧会のポスターなどが展示されている。遊び心あふれる人となりを思わせる遺品たち。壁に張り巡らされた展覧会ポスター群には、広告という目的から来るのかかなりいいところをついた作品が選択されていて、それはまた私たちが思い描くニュートン写真のイメージを強固にしていく。それらの写真の醸し出す気高いエロスにびっくり。モデルの表情やポーズ、小道具との組み合わせから生み出されるエロス。それを彼の人となりを示す展示と合わせて見ると、そのエロスは彼のユーモアの感覚を異化させたものなのか、とも思わせる。

ニュートン- ラシャペル- ナクトウェイ

赤絨毯の階段を上った二階の展示場には、ニュートンの映画俳優、ポップスター、政治家などの男性ポートレートと並んで、商業写真家デビッド・ラシャペル(David LaChapelle)、戦場写真家ジェームズ・ナクトウェイ (James Nachtwey) という全く異なるフォトグラファー二人の作品が展示されている。この繋がりがありそうで無さそうな不思議な3人展のタイトルが 「MEN, WAR & PEACE」 男と戦争と平和。

実は私がこの展覧会を訪れた理由は、ラシャペルのハリケーン通過後の破壊された家の前で子供を抱いて立つモデルの写真。でも展示には正直いってがっかり。そのハリケーン写真以外の数点を除いてほぼ全部ダメ。まずプリントがインクジェットのクウォリティーそのもので、またその質の悪さを逆手にとってものにするところまでも行ってないような。展覧会することになったので慌てて拡大、プリントアウトして額に入れて美術館に飾りました! といった即席な救いのなさが漂う。ファッション雑誌というメディアが彼には一番合ってるのではないでしょうか。悪口では全くなくて。



もうひとりの写真家ナクトウェイは 「戦場フォトグラファー」 なんだそう。すごい肩書き。劇的な一瞬を、完璧な構図とコントラストで捉えてる。ものすごくプロフェッショナル。でもなんか不思議。悲嘆にくれる女たちや、死の影に不安を覚える戦場の少年 (実際の人影でシンボリックに表現されてる) など、どこまでが写真家が主観的に 「切り取った」 フィクションでどこからがありのままの現実なのか、考えれば考えるほどわからなくなる。作家の意図とはまた別に、観る者の投影も入り込んでくるし。ここで頭を抱え込んでいる少年は絶望しているように我々の眼に映る。でも実際に絶望しているのかはわからない。背中がかゆくて掻いてるだけかもしれないし、またこの写真が撮られた場所が実際に戦場であるかの証拠も何も無い。

そう考えてみて初めて、このナクトウェイの実は意図的なプレゼンテーション、ラシャペルのうそであることを包み隠すことのない過剰演出、そしてニュートンがやって見せる被写体との共同作業としての演出とが交差してくる。

(+ プラス) ドゥパルドン

さらに階段を上った最上階、屋根裏だからなのかしらやけに薄ら寒い部屋では、もう一つ別の企画が催されている。フランスの写真家レイモン・ドゥパルドン (RAYMOND DEPARDON) による映像インスタレーションと写真の展覧会 VILLES/ CITIES/ STÄDTE 都市 都市 都市。 (ここで展示作品のスライドショーが見れます。ページ右下の Diashow starten をクリックしてみてください) 階下の3人展の演出過剰気味な写真群とは鮮やかな対比をなすように、ドゥパルドンは自身の主観や感情を決して介入させないよう可能な限り被写体との距離を保とうとしている。特に映像作品。観客をぐるりと取り囲む計12のスクリーンにはカイロ、上海、ニューヨークなど世界各地の街の日常的風景が同時に流される。道を横断、通行する人々。時にカメラはその中の一人を捉え一瞬追いかけるが、人物はすぐに雑踏の中に消えていく。作家は各都市に3日滞在制作、写真機と16ミリカメラ、5分間長のフィルムカートリッジ10本を抱え、演出・再撮影は一切せずに制作する。そういった主観に左右されてしまう要素を排除しようとする制作スタイルは、世界をどれだけありのままに見ることが出来るのかの挑戦のように見える。

写真は 「真を写す」 と日本語で表記されるように 「物理的に」 現実を写し取るけど、それは本当に私たちにとっての現実と呼べるのか?ある事実が個人の目を通して切り取られ、ある瞬間故意にシャッターが切られる時、そこに作家の意図やまた観る者自身の投影が入り込むことが避けられない。ナクトウェイの完璧にドラマチックな写真がドキュメンタリーと呼ばれる時、ドキュメンタリーってなんなんだろう、と考えてしまう。もし写真も映像も、絵画と同程度の虚構性を含むとしたら、絵画もある時にはドキュメンタリーと呼ばれていいはずなのに・・・? 写真における 「現実」 って、写真があくまでも 「物理的に」 物事を写し取るという私たちの機械信仰のあらわれに過ぎないのでは。

NEWTON-NACHTWEY-LACAPELLE, "MEN, WAR&PEACE" は 2007年5月20日まで

RAYMOND DEPARDON, "VILLES CITIES STÄDTE" は 2007年4月1日まで 写真美術館ヘルムート・ニュートン財団、ベルリンにて

この写真美術館のある動物園駅の裏側は、福祉施設もありホームレスの溜まり場。ここを通るたびに西ベルリン映画 「クリスチーネ F/ われら動物園駅の子どもたち」 を思い出してしまいます。麻薬中毒の子供たちは居ないけど。ひょっとして今居る彼らが当時の子供なのかしら。

2007年2月11日日曜日

建築家の腹

街はベルリン映画祭で盛り上がってるみたいです。このイベント、なんか嫌。参加しようと意気込んでも一般人にはチケットが手に入るのか直前まで分からないし (聞いた話ではジャーナリスト優先で彼らが会場に入った後で残りの席を一般に売るからだそう)、短い期間にみっちりとしたスケジュールで、「見逃した」 感をずいぶんと募らせてくれるからです。それを逆手にとって 「さて、わたしは今現在何を見逃してるのかしら・・・」 とプログラムをめくってみたり。そんなひねくれた楽しみ方しか許してくれないこのベルリナーレと暮れのクリスマス市が、私にとって憎くてしょうがない2大年中行事です。

その映画祭にシンクロさせた企画だと思うのですが、ピーター・グリーナウェイが大学で講演をするというので予習のつもりでDVD を借りてみました。とはいえなんかめんどくさくなってしまって実際の講演会には行きませんでした。ベルリナーレが憎いといいつつ、実は怠惰な自分が憎いのかもしれませんね。
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「建築家の腹」 ピーター・グリーナウェイ

ローマの全体主義的なばかでかい建築物を背景に繰り広げられる人間くさいドラマ (あらすじ)。現代に生きるアメリカ人建築家が主人公。 (歴史の深遠さや異文化に打ちのめされる現代人の姿を描こうとするときに、アメリカ人を主役に据えるのはよく踏襲されるパターンのような気がする。シェルタリング・スカイとか)

- その設計が、現実には何一つ実現されることなく消えていった18世紀の建築家ブーレ。彼の展覧会を企画する現代建築家。そのアイデア故に偉大である過去の建築家と、またそのアイデアのみで構成された展覧会を企画する現代の建築家。この純粋な観念性と、背景に映し出されるローマの堅牢な巨大建築物。 (観念性と物質性)
- 石で出来たローマ歴代の皇帝は時間に耐え、その腹は病理に蝕まれることない。生身の建築家の腹は時間と共に癌に蝕まれていく。観念世界の恒常性と人間の肉体のはかなさの対立。 (精神と肉体)
- その人間である建築家は妻の腹に子を宿し、自分の腹に癌を巣食わせる。子供の誕生と同時に窓から身を投げる男。(男と女、死と誕生)

これら二項対立の思考は徹底した左右対称、一点消失の構図として視覚化される。

フェリックス・ゴンザレス=トレスの正方形

また正方形です。なぜかというとミニマル/ コンセプチャル・アート華やかなりし時代の作品だから。カール・アンドレにも似た床面インスタレーション。この上を歩くことは出来ないけど (出来るのかしら?でもまがりなりにも食べ物だから踏みつけはご法度)、飴を取って食べれます。おいしくは決してない。この手のコンセプチャル作品、作家の意図を理解するにはまたいろいろ読んでからじゃないと分からない。そういうのたまにめんどくさくなる。ハンブルガー・バーンホフの正面入り口入ってすぐのインスタレーション。
展示期間等、不明。

2007年2月8日木曜日

ウィリアム・ケントリッジ 「月世界旅行」

作家の自画像

また、木曜のただの日にハンブルガー・バーンホフに行ってしまいました。南アフリカ出身の白人作家ウィリアム・ケントリッジの作品を美術館が購入したということで、お披露目の展示がありました。
大きい暗いホール内に映写スクリーンが大小合計8つ。作家自身が自分のドローイングの前を行ったり来たりしながら描いては消し、思考する創造のプロセスが小さいフォーマットでいくつも映写される。作家はドローイングの向こうに側に何かを見極めようと躍起になる。壁にかかる数あるドローイングの中には日本人にも馴染みの深い小説 「星の王子さま」 に出てくる帽子 (あるいは象を飲み込んだうわばみ) のイラストに似たものもあって、そんなところからも作家の思考を垣間見せる。
そういった様々な切り口から自らの制作プロセスを見せる小作品に囲まれる中、ホール正面には編集の少し凝った映像作品が他より大きめに映写されている。これがメインの作品らしい。こちらもアトリエで制作する作家自身が主人公。逆さにしたエスプレッソのカップを望遠鏡のように使って、台形の真っ黒く塗り潰されたドローイングの表面を覗き込む (写真上)。夜の闇のように、或いはコーヒーの粉のように黒いドローイングの向こうに見える風景の中でエスプレッソの受け皿は月となって空に昇り、エスプレッソ・マシンはロケットとなり地上から発射する (写真下)。
ところでタイトルは 「Journey to the Moon/ 月世界旅行」、1902年にジョルジュ・メリエスにより製作された映画と同名。ケントリッジによると、このメリエスの映画の背景には19世紀後半の植民地主義的な思想が入り込んでいるんだそう (未開拓の野生の地に進出する文明)。ケンブリッジの作品において月面の風景は、自身の出身地である南アフリカの風景と同化する (しかしここではその風景はロケットが発射する地として表現される)。
いつしか裸の女性が作家の背後に寄り添う。作家はその存在にぼんやりと気づきはするが実在をはっきりとつかむことは出来ない。美の女神に寄り添われるクールベの自画像 「画家のアトリエ」 を想わせる。寓意を通した、芸術家である自身の存在表明。

William Kentridge / JOURNEY TO THE MOON
ベルリン・ハンブルガー・バーンホフ現代美術館
2007年5月6日まで

2007年2月7日水曜日

ミニマルオブジェの空っぽさ

ホロコースト記念碑について物申したあと、自分で書いた 「現代美術の形式という空っぽな入れ物」 について何なのか少し考えてみた。60年代ミニマル以降いろんな意味が詰め込まれたキューブがたくさん製作されている。 この場を借りていくつか挙げてみます。

元祖: ロバート・モリスの人柱 (1961)。まるで見知らぬ人が隣に立ってるみたいな 「擬人性」 からマイケル・フリードに批判されたモリスの人型オブジェ。



ハンス・ハーケのエコシステム・イン・ザ・ボックス (1968)。立方体内で水が蒸発して再び水に循環。


ブルース・ナウマンのコンクリートのかたまり (1968)。中にはテープレコーダーが埋まってて音が出るらしい。コードから電流を充填する。


ソル・ルウィットの入れ子キューブ (1966)。観念的な箱の中の箱。さすが有名作品だけあって、他よりずいぶんひねりがあります。


そしてエイドリアン・パイパーは文字通り意味をつめこむ (1968)。


ところでロバート・モリスの人間大オブジェは、その存在感で観者を圧倒しようとすることのみで成立しているという点において、ベルリンの 「ホロコースト記念碑」 に通じるものがある気がする。ひょっとしてこんな風に記念碑に応用されてしまうもやもやした現前 (Presence) こそが、マイケル・フリードが 「演劇的」 として警戒し、否定しようとした点なのかしらとふと思った。どうなんでしょう。

マイケル・フリード 『芸術と客体性』(Michael FRIED, "Art and Objecthood")
これがその高名なミニマル批判の論文です。

2007年2月6日火曜日

和辻哲郎『古寺巡礼』

享楽的な日本の風呂

現象学の哲学者フッサールについてのゼミナーで、ドイツ人教授が、現象学的な観察方法として何度も和辻哲郎の名を挙げた。でもワツジじゃなくてワチュイと発音するので最初誰のことだかわからなかった。本を探し出してとりあえず読んでみることにした。古寺巡礼。奈良京都の仏像の鑑賞記。ものすごく主観的なところから出発して結局主観論から脱出することなく、それが徹底して貫かれていてちょっとすごい。壁画に描かれた女性の色気にまず自分が参りそれもまた僧を悩ませたであろうと考えてみたり、仏像の目の離れ具合からモンゴル系だろうとか出身地を憶測したりと全く思い込みの域を出てない部分多々あり。しかも手に負えないほどの感動屋さん。ちょっとでも学術的に仕事したことある人ならこの実証を全く伴わない論理の帰結に、え、これでいいの?と、とまどってしまうのでは? ・・・ そう思いつつ他方で、いくら資料を集めて分析して実地に基づいて検証したとしても人は何を知りえるのだろう、とも考えてみる。客観的であるはずの知識でさえも結局は主観から独立しえないのでは? 本を読み込んでいくとその徹底的に主観的な観察は、時にすごく深いところに突き進んでいくことに気付く。例えばアジャンタの壁画の女性のふくよかさと僧の禁欲生活との矛盾から導かれていく考察。そういった矛盾は概念を通して物事の一面のみ観察することから生じるのであって、そうではなく 「生きた全体」 として物事を捉えなければならないということを筆者は指摘する。旅路の温泉宿。湯船につかりながら極楽気分で西洋と日本の風呂の違いについて考える。湯気立ち昇るただ中での全体的考察、これが現象学か。

2007年2月5日月曜日

Late Shift: reacTable @ Foyer

音と映像をつなぐ媒介

トランスメディアーレ会場の一部で行われていたスペイン人DJグループのショー (reacTable) 。テーブルの上に置かれた透明アクリル製のキューブやプレートは各々リズムや音階などの制御を担当していて、各自が自由に動かせるようになっている。動かす度に、テーブル上に映写される幾何学的な記号がカラフルにリズミカルに変化して、それと呼応してスピーカーからサウンドも変化していく。大人から子供みんな楽しく動かして遊んでいた。
ここでこの仕組みを説明してくれたのがへび。このテーブルが銀行にあるタッチパネルのようなインターフェイスの役割を果たし、テーブルの下からカメラで机上のオブジェの動きを読み取り、コンピューターがそれを音と映像に変換しているそうな。聞いてみれば当たり前のようなことだけれど、それを聞いてしまった私はがっかりした。知らなかったうちは、まるで自分がDJになってターンテーブル上に表れる記号をサイコロで操作して音を操っているみたいな錯覚があって、記号と音とが共鳴しあってると信じてた。でもその私が思い描いていた音と映像の共鳴は実際はコンピューターのプログラムを介したもの。結局は数字に変換されるもの。それってまるで人を騙してるみたいと憤慨すると、それは人間にいいんだとへび。実際にこのテーブルの下に設置されたコンピューターがやっているようなことは人間の脳もやっていること。映像と音、この異質の情報源をイメージ化して勝手に結びつけているのは人間の脳。音楽と映像をイメージ化してお互いに繋げ合う自分の脳の働きを人間が知る必要がないように、コンピューター制御のしくみを知る必要も全くない。そうなんだ。音と映像を結びつけて特定のイメージにして感動出来るのはだから人間だけなんだ。この人間の能力はカントのいう 「構想力」 と関係があるのかしら。

反省: 今回は展覧会だけ見るために最終日に慌てて行ったので、人が多かったしゆっくり観れなかった。来年は事前にチェックしてイベントやコンサートにも参加してみようと思う。

テレビ塔

数あるDDR キッチュの中でもテレビ塔だけは西・東ドイツ人の差なく、或いは国籍までをも越えて本気で愛されている。なぜだ?このレトロなSF 調のせい?でもそれはこのテレビ塔に限ったことではないはず・・・

トランスメディアーレ 2007

トランスメディアーレは毎年この時期にベルリンで行われるメディア芸術祭。今年で20年目を迎えるこのイベントのテーマは、今日情報メディアや新技術が発達し我々の生活圏にますます影響を及ぼす中で、芸術や日常をがどのように変容していくのかを見つめること、だそう。全体の構成は展覧会、講演、パフォーマンス、コンサート、映画上映会、クラブでの夜イベント等々多岐にわたっているのですが、私は最終日2月4日に展覧会を訪ねてきました。

メディア・クンスト祭りというぐらいだから先端技術の導入が目立つ見本市的な展覧会では? という予想に反して、今回 unfinish! と題された展覧会には技術的進歩と人間性を結び付けようとする少しアイロニカルでアナクロな、でもアートでしか出来ないような表現が目についた。そんなようなのをいくつか取り上げてみたいと思います。

Against God by Water Pistol
モーン・ナ (Moon Na 韓) による1分40秒のビデオ作品。雨の降る街角に作家自身が手に水鉄砲を持って立ち、それをゆっくりと天に向けて撃つ。発砲された水は雨と一緒になって再び本人に降りかかる。子供のおもちゃ “水鉄砲で神に逆らう“ (作品タイトル)。


Random Screen
アラム・バートル (Aram Bartholl 独) による 「ランダム・スクリーン」 と題された立体作品。縦横1メートルほどの大きさのライトボックス。ランダムに点滅する単体はコンピューターのピクセルやテクノクラブのデコレーションを思わせたりと、近未来なイメージ。ところが一歩背面に廻ってみると実は、蝋燭 (こちらの家庭でよく見られるお茶を保温するためのもの) の熱とその熱を利用して回転するように切り抜かれたアルミのビール缶が、不規則に点滅するライトボックスの仕掛けであるという種明かし。ハイテク/ ローテク、非日常/ 日常のアンビバレント。


Roots
ロマン・キルシュナー (Roman Kirschner 墺) の電極を利用した作品。茶緑色に濁った溶液で満たされた水槽の中で増殖し続ける金属結晶。その先端は気泡を発して植物のような有機的な変容を見せる (タイトルは 「根」)。アーチストはペルシャにおいて昔から見られるイメージ 「頭から生える木」 からインスピレーションを得たそう。展覧会カタログの説明によるとこの作品にはもう一つ50年代アメリカの人工頭脳学者ゴードン・パスクが考案した 「ケミカル・コンピューター」 のアイデアが織り込まれているそう・・・ (ここからは理系へびの説明): コンピューターの構造の基本はまず0と1、この二つの異なる状況を作り出すことから始まり、そしてその差異を認識して信号化する装置が必要となる。
この二つの異なる状況とは、電源ON/ OFF、りんごがひとつ/ ふたつ、など読み取り可能なものであれば何でもいいとのこと。つまりこの 「ケミカル・コンピューター」 では、溶液中の化学反応による化学物質の濃度差が0と1を代理する。この水槽内の化学反応は音として再生され、室内には心臓の鼓動のようにも聞こえる重低音が一定のリズムで響きわたる。コンピューター装置と人間の類似。ペルシャに古くから伝わるという人間の脳天から生える藪のイメージは、このコンピューター内で増殖する結晶の姿と重なり合う。(参考はココ)

transmediale ausstellung unfinish!
1月31日から2月4日まで。
ベルリン芸術アカデミー(Akademie der Künste, Hanseatenweg/ Tiergarten) にて
トランスメディアーレ2007/ 公式サイト

ちなみに昨年のホームページも凝ってて面白いので是非見てください。今年のも去年のもページ上部のイメージ部分をクリックすると音と絵が変わります。



2007年2月4日日曜日

映画 「死ぬまでにしたい10のこと」

二つ目の物語レベル

癌で余命幾ばくもないことを宣告された23歳の女主人公が、死ぬ前にしたいことをノートに書き上げそれを実行に移していくストーリー。2人のまだ幼い子供たちが18歳になるまで毎年誕生日にテープに吹き込んだメッセージを受け取るよう工面し、夫と子供のために新しい女性を見つけ、刑務所にいる父親に会いに行き、見知らぬ男性と恋愛をしてみる。映画そのものは彼女の最期を見ることのないまま終わってしまう。

見終わった直後は突然のラストに、あれ、とちょっととまどったけど、一晩寝て起きた後にいい映画だったかもと思った。主人公は自分がこの世から居なくなってしまった後にも続いていくであろう親しい人たちの人生に想いを馳せ、その想定する未来に拠って行動する。主人公の行動を描写するベースとなるストーリーの基盤上に、主人公が思い描く未来が見えない物語層として重ねられている。主人公が死後未来を見ることが出来ないのと同じように、観客もまた主人公に感情移入しながら、決して見ることのない映画終了後の未来に想いを馳せる。物語構造が重層化されていてそれが作品の厚みになっている。原題は 「My life without me」 (私が居ない私の人生)。ちょっとだけポイントずれてる商業用日本語タイトルが私を悲しくする。


「死ぬまでにしたい10のこと」 公式ホームページ

2007年2月1日木曜日

ユダヤ人犠牲者のための追悼碑

言葉による情報は視覚芸術を圧倒する?



1月23日付けのフランクフルター・アルゲマイネ新聞。「史実は芸術よりも心を揺さぶる」というタイトルで、ベルリンの中心部に建つホロコースト追悼碑を訪れた小中学生たちへのアンケート調査の結果を報告している。この2005年5月から開設された「ヨーロッパ・ユダヤ人犠牲者慰霊館」は地上のホロコースト追悼碑と地下に設置された資料館その2つの施設から成り立っている。子供たちの回答にはどちらかというと資料館でのホロコーストの歴史に関する展覧会に心を動かされたという意見が目立ち、追悼碑そのものからはなかなかその趣旨を汲み取れていないという傾向が見られる、というのが記事の伝える内容。

この見渡す限りの灰色の瓦礫群はまるで旧約聖書の中の風景のようでもあり、或いは直立し地中に埋没する形体はアイデンティティーを奪われ抹殺されていった被害者達を象徴してるようでもあり、視覚的には読み取り方が開かれていながらもそれが限定された主題(ホロコースト)と知的に重なり合っていて、私がこの追悼碑を初めてみたときには割と感銘を受けたのを覚えている。追悼碑といえば通常は、英雄や犠牲者などの人物をかたどったブロンズ像が立っていたり物語を説明するレリーフが掛かっていたりしてそこがどういった場所であるのか読み取ることが出来る。あるいは瞑想のための祭壇を設置するなど宗教建築から借用した形式を取り入れることによって、訪問者は自分がどういった振る舞いをすればよいのか自ずと分かるような仕掛けがされている。そういった意味でこのホロコーストによる犠牲者追悼碑のもつ開かれた抽象的な性格、つまり造形のシンプルさが作品の自由な解釈を個々に委ねる点と、場内で各自が自由に行動できる開放性といった点は、表現における自立した強靭さであるが、同時にまた弱みでもある。その弱みの部分がこの記事では子供の目を通しながら取り上げられている。



確かに実際ここを訪れてみると、コンクリートの柱から他の柱にぴょんぴょん飛び乗って遊ぶ子供がいたり、大人でも柱の間をさまざまに巡ってみたりしてやはり「楽しい遊び場」 という気持ちの方が強い。それに立地。ブランデンブルク門とポツダム広場の間そして追悼碑の向こうには連邦議会が見渡せるという、人寄せが容易で政治的効果も大?といった以外に必然性を見出せないロケーションは自ずとエンターテイメント性を増してる気がする。しかも車通りが多くてその騒音で深刻に瞑想する気分でもないし。また記事によると予算不足で(ベルリンではよくあるパターン)最初の計画よりだいぶ縮小されてしまったのだそう。これが当初の計画通りの大きさで、見る人を威圧するようなものだったらまた話は違っていたのかもしれない。

こういった実際的な問題は置いておいて今回言いたいポイントは、言葉から得る情報と視覚から得る情報の質的な違い。この追悼碑では地上と地下 (地上にそびえたつコンクリート柱と地下の資料館) にその二つの役割がちょうど二分されて与えられている。子供たちは資料館の展示から得た知識に多くの感銘を受け、コンクリートの柱には意義を見出せなかったとアンケート結果は指し示したそうだけれど、この追悼碑のように抽象性が高く純粋にビジュアル的なものって、そこから感受したものを言葉に変換して他人に伝えることは可能なんだろうか? 言葉が指し示す内容は100%確実に他人に伝達されるけれど、視覚芸術にもそれが出来るの?  言葉のようには具体的な事物を指し示すことの出来ず、解釈が自由な (ように見える) 抽象芸術は、人と人とを繋ぐ共通言語であり得るのだろうか?  この追悼碑の目的を全く知らない人がこれを見たとき、その人々の間には共通の理解が生じてるのだろうか?

柱の間に隠された地下の資料館へ通じる入り口




参考記事:Christian Saehrendt: Information beeindruckt mehr als Kunst. Eine Umfrage unter Schülern nach deren Besuch des Holocaustmahnmals. In: Frankfurter Allgemeine Zeitung, FAZ, Frankfurt am Main 23. Januar 2007 リンク