2008年1月18日金曜日

採光と瞑想効果

ノイエ・ヴァッへ

ベルリン一の目抜き通りウンター・デン・リンデンにあるノイエ・ヴァッヘ (Neue Wache: 新衛兵所)。もともとはその名の通りプロイセンの衛兵所でしたが、現在は度重なる戦争の犠牲者のための慰霊碑として機能し、多くの観光客が立ち寄ります。


成り立ちについて簡単に説明を。

この建物はもともと、1816年にプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世が、建築家カール・フリードリッヒ・シンケルに衛兵所として設計させたものでした。

ドーリア式の柱から成るの柱廊玄関をもつこの建物は、パルテノン神殿などの古代ギリシャ建築に範をとる「古典主義」という様式に属します。

シンケルは設計の際に、建築物が他の一切の形体や人物をも想起させず、そのかわりに抽象的な観念のみを想起させることを意図しました。それはこの「古典主義」という普遍的な建築様式が、過去に対する「感覚」のみを人に呼び起こすことを意味しています。

設計当時、シンケルは決して、建物が戦争の犠牲者のための慰霊碑として使用されるとは考えていませんでした。ただ彼の「抽象的感覚のみを想起させる」建築といった、用途に合わせて外観を明確に規定することをしないコンセプトの曖昧さが、後世における慰霊碑への用途変更を簡単にしてしまったのかもしれません。

1918年にドイツ帝国が崩壊、ワイマール共和国が成立した後、1931年に建築家ハインリッヒ・テッセノウ (Heinrich Tessenow) はプロイセン州政府から、この建物を第一次大戦の戦没者慰霊の場に改造するよう依頼されました。彼は内部を仕切る壁を取り去り、全体に屋根をかぶせ、その屋根の中央には円形の開口部を設けてそこから光が降り注ぐように設計しました。

1931年改築後の室内。中央には2メートルの高さの黒い花崗岩の台座、その上に金とプラチナの箔が施された桂冠。

この改築以降常に、この本来の「衛兵所」は、訪問者に瞑想を促す目的の追悼の場として機能し続けています。

第二次大戦後の東独時代には「ファシズムと軍国主義に犠牲者のための追悼所」とされました。

ガラス製のプリズムの中には常時炎が灯されており、またここには無名の強制収容所の犠牲者一人と無名の兵士一人の死体が祀られていました。壁には東独の国旗が。

ドイツ再統一後の1993年以来、この建物はドイツ連邦政府の中央追悼施設として「国民哀悼の日」の式典会場になっています。

現在、中にはケーテ・コルヴィッツのピエタ像が設置されています。


丸くくりぬかれた天蓋からの採光はローマのパンテオンを思い出させます。

ミケランジェロ設計のパンテオンの天蓋

こちらがパンテオンの外観ですが、のちに改装された内部の天窓だけでなく、ギリシャ建築風のフリーズや円柱までも、シンケルのノイエ・ヴァッへの外観と完全にクロスしています。外観はシンケルのオリジナルのままで、全く手を加えていないにも関わらず、一部分の変更のみで、プロイセン特有の新古典様式の衛兵所が、別のコンテクストに取り込まれていってしまうことが面白いと、私は思うのですが、どうでしょうか。

ところで、話はずれますが、穴を開けられた天蓋の手法は、現代においてもアートの言語として使われることが多く見られますが、そういった場合、瞑想あるいは内省をうながす効果をねらうことが定石のようです。
リベスキンドが設計したベルリン・ユダヤ博物館の「ホロコーストの塔」

スイス山中にあるジェームス・タレルの作品「Skyscape Piz Uter」

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