2007年5月30日水曜日

ソビエト映画 「Come and See」

戦争末期 1943 年の白ロシア。15 歳の少年フロリアンは母親の反対を押し切ってパルチザンに参加する。森の中で空爆を受けるところから彼の苦難が始まる。空爆を逃れて家に帰るが、家族はドイツ軍に虐殺された後だった。そして隣村で村人が納屋に閉じ込められ生きたまま納屋ごと焼かれるのを目撃する。その後村人を焼き殺した加害者たちがパルチザンに捕らえられ、行為を追及される。命令を下した隊長は 「これは戦争だった」 「自分はこの手で一人も殺してはいない」 と証言。加害者側に立っていたロシア人たちは 「俺たちはドイツ人じゃない」 と口々に叫ぶ。彼らは銃で処刑される。フロリアン少年は路上に放置されたヒットラーの肖像に怒りを込めて発砲する。その途端、映画は逆回しで時間軸を遡りはじめ、戦争の発端、ナチスの台頭からヒットラーの赤ん坊時代の肖像に行き着く。そしてフロリアン少年の呆然とした表情で映画は終わる。

この映画のすごいところは、ハリウッド映画みたいなセットを作り上げないで、人物を普通の風景に配置するだけで物語を作っているところ。私の記憶では、フロリアン君のお家と隣村の納屋以外映画セットらしいものは何もなし。最初のシーンは砂丘。空爆を受けるのは森の中。家族が殺されたことを知った後では、延々と泥沼を渡っていく (このシーンはすごい)。

そして何も起きない平和なシーンが延々と続いたりと、時間は常に主観的に流れていく。

ハリウッド映画に見られるような映画的お膳立ては一切無く、では何が物語りを形作っているのかというと、それは群衆と自然と、そして登場人物の表情。エスカレートする暴力がだんだんと変わっていくフロリアン少年の表情で生々しく表現されている。

少年に付き添う少女の存在が象徴的に描かれる。

フロリアン君は暴行を目撃し証言者となる。目撃したことは記憶されるが、もし証言者がその記憶と共に居なくなったらその目撃された事実も消え去ってしまうのか。全てのユダヤ人が抹殺されるということは、すべての証言者までもが抹殺されるということにつながる。歴史にはユダヤ人が存在しなかったことになってしまう。
映画内には叫び声や罵声、独り言以外、状況を説明する類のまともな台詞が一切無く、リアルな映画セットも無く、全てが芝居じみていて夢の中の出来事のようにも思える。こういった手法が歴史的事実と主観的記憶の関係の曖昧さをうまく表現することに繋がっている。



ところで、ソビエトでは映画産業がものすごく盛んだったそう。それがテレビや新聞など主要メディアの検閲が厳しかったためであったとは良くいわれるところ。映像表現のメッセージとしての曖昧さが、当局の検閲に対して盾となったんだそうです。

おもしろいですね!

1985 年製作。

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