2007年5月30日水曜日

ソビエト映画 「Come and See」

戦争末期 1943 年の白ロシア。15 歳の少年フロリアンは母親の反対を押し切ってパルチザンに参加する。森の中で空爆を受けるところから彼の苦難が始まる。空爆を逃れて家に帰るが、家族はドイツ軍に虐殺された後だった。そして隣村で村人が納屋に閉じ込められ生きたまま納屋ごと焼かれるのを目撃する。その後村人を焼き殺した加害者たちがパルチザンに捕らえられ、行為を追及される。命令を下した隊長は 「これは戦争だった」 「自分はこの手で一人も殺してはいない」 と証言。加害者側に立っていたロシア人たちは 「俺たちはドイツ人じゃない」 と口々に叫ぶ。彼らは銃で処刑される。フロリアン少年は路上に放置されたヒットラーの肖像に怒りを込めて発砲する。その途端、映画は逆回しで時間軸を遡りはじめ、戦争の発端、ナチスの台頭からヒットラーの赤ん坊時代の肖像に行き着く。そしてフロリアン少年の呆然とした表情で映画は終わる。

この映画のすごいところは、ハリウッド映画みたいなセットを作り上げないで、人物を普通の風景に配置するだけで物語を作っているところ。私の記憶では、フロリアン君のお家と隣村の納屋以外映画セットらしいものは何もなし。最初のシーンは砂丘。空爆を受けるのは森の中。家族が殺されたことを知った後では、延々と泥沼を渡っていく (このシーンはすごい)。

そして何も起きない平和なシーンが延々と続いたりと、時間は常に主観的に流れていく。

ハリウッド映画に見られるような映画的お膳立ては一切無く、では何が物語りを形作っているのかというと、それは群衆と自然と、そして登場人物の表情。エスカレートする暴力がだんだんと変わっていくフロリアン少年の表情で生々しく表現されている。

少年に付き添う少女の存在が象徴的に描かれる。

フロリアン君は暴行を目撃し証言者となる。目撃したことは記憶されるが、もし証言者がその記憶と共に居なくなったらその目撃された事実も消え去ってしまうのか。全てのユダヤ人が抹殺されるということは、すべての証言者までもが抹殺されるということにつながる。歴史にはユダヤ人が存在しなかったことになってしまう。
映画内には叫び声や罵声、独り言以外、状況を説明する類のまともな台詞が一切無く、リアルな映画セットも無く、全てが芝居じみていて夢の中の出来事のようにも思える。こういった手法が歴史的事実と主観的記憶の関係の曖昧さをうまく表現することに繋がっている。



ところで、ソビエトでは映画産業がものすごく盛んだったそう。それがテレビや新聞など主要メディアの検閲が厳しかったためであったとは良くいわれるところ。映像表現のメッセージとしての曖昧さが、当局の検閲に対して盾となったんだそうです。

おもしろいですね!

1985 年製作。

2007年5月21日月曜日

政治権力と造形

ポツダム広場近く、Leipziger 通りに建つ大蔵省 (Bundesministeriums für Finanzen) 建物には、旧東独時代の壁画が残る。

この建物自体は、軍事国家プロイセンからナチス・ドイツの時代を経て主に軍事・政治目的に使用されてきました。ナチスの支配する40年代にはこの壁画と同じ場所に、兵士達とナチスの鷲の紋章のレリーフが架けられていました。

戦後、その建物は東独の政権政党であるドイツ社会主義統一党 (SED) の拠点となり、ナチスのレリーフは取り外され、マックス・リンガーによるタイル製の壁画が掛けられることになります。

タイトルは 「ドイツ民主主義共和国の建設」 1952年。兵士の像とはうって変わって、いろんな職業の平民がいかにも幸せそうに集っています。とてもカラフル。

近づいてよく見てみると、タイルにひとつひとつ絵付けして焼成してから、大きな絵に組み合わせたようです。ドレスデンのマイセン磁器のタイルで出来た王侯貴族の壁画なんかを想わせます。

人物は等身大よりもずいぶんと大きく描かれています。



特定の支配者ではなく、老若男女いろんな職業の無名の人々が主役となってひとつの理想社会を形成します。


頭をよぎるのは第二次世界大戦中、全く同じ場所に掛けられていたという兵士の群像レリーフ。戦後ナチスドイツの否定と共にそのレリーフは取り外され、そこには新生社会主義国家の主役達、労働者の群像が描かれることになる。この不特定の無名の人民達が、ナチスドイツがかつて掲げた主役達、無名の兵士達の群像と、どうしても重なり合ってしまう。

この建物が位置するのは、ナチスドイツの政治・プロパガンダの中心地。また建物自体も、時代の変遷や数多くの建て直しにも関わらす基本的な構造や外見には大きな変化はなく、政治的・軍事的機能はその建立以来保たれている。その建物を同じような政治的目的で、引き続き使ってゆくのは、その建物に元来から付随している権力の構造をもそのまま引き継ぐことにも繋がるのではないのでしょうか?

また、絵付けタイルの使用といった伝統的、手工芸的技法の応用も、権威主義的な臭いをふりまく、と感じるのは私だけでしょうか?

ナチスドイツが滅び、その地には新たな社会主義国家が生まれたけれど、結局のところは前面に掲げられた主役達を取り替えただけで基本にある権力構造は何も変わっていなかったのではないのでしょうか?この二つの壁面作品が私達に示すのと全く同じように。


2007年5月15日火曜日

ギャラリーめぐり 4

ギャラリーめぐりの締めくくりとして、Zimmerstrasse からずーっと自転車で3キロほど北上。

Wedding という地域に行きます。ここはこの数年来、芸術家村みたいなものが結成されて盛り上がってるらしいです。みんなで家を1軒丸ごと共同でアトリエとしてシェアしたりしてて、そんなのが20軒くらい集まってます。共同のオープニングがあるというので行ってみました。

この共同体 (?) の名称が KOLONIE WEDDING (リンク)。アーチストの町内会みたいな感じなのでしょうか?

面白いのは、さっきのZimmerstrasse の商業画廊との対比。作品的にはもちろん・なんだけど何よりも、自由に生きてる、という気分にあふれてます。


映像と、新聞紙のはりぼての地球儀を組み合わせたインスタレーション作品が、不思議なくらいナイーブですがすがしかった。



ギャラリーめぐり 3

バーバラ・ヴァイス画廊の階下では、こんな家の作品が。
スロベニアの作家だそうです。
タイトルは The Lucy House Tornado Shelter。

人間の体のようにオーガニックに変化可能な住居?だそう。

こんなドローイングがたくさん展示してありました。こういうのは社会科学的アプローチっていうんでしょうか? こんな、ユートピア思想から出発して、芸術を最終目的への手段とするやりかたって、やはりロシア・アヴァンギャルドから旧東ブロックへと脈々と続く東側の伝統なのでしょうか?

ちなみに作者は1953年生まれ。

東欧と西欧が巡りあう場所であるのも、ベルリンの魅力のひとつですね。


Marjetica Potač
Galerie Nordenhake
5月20日まで

ギャラリーめぐり 2

同じ建物内のバーバラ・ヴァイス画廊では、ローマン・シグナーの彫刻を展示していました。

レディメイドの動く彫刻。アルミ板に囲まれた丸い空間と、扇風機から送られる風。




中ではビニールの買物袋が風に吹かれて回転しています。視覚化の出来ない自然の法則や、潜在エネルギーそのものを、作品として提示しているようです。



こちらはコンピューター制御で左右の扇風機が交互に作動して、ドラム缶があっちへ、こっちへとごろごろゆっくり転がります。



Roman Signer / Vier Skulpturen
Galerie Barbara Weiss
6月2日まで

ギャラリーめぐり 1

イボンヌ・ロープ / 蜂蜜泥棒

ベルリンのZimmerstrasse という通りには、ベルリンで一流のギャラリーが集まっています。金曜の夜は各ギャラリーでオープニングが催され、普段のご職業は?と思わず訊ねたくなってしまうような人々 (自分も含めて) ですごい賑わいです。

説明文によるとこの女性作家は、カタリーナ・フリッチュの元で学んだそうです。動物のモチーフによる神話的表現は、師匠の作品を彷彿とさせます。


蛇がギャラリーの、暖房管にからまってます。 シャンデリアとからす。上へと注意を引き寄せる展示方法をとっています。

なんか、これ、いい。 耳が女性器。
はちです。

Yvonne Roeb / Honigdieb
Galerie Wilma Tolksdorf
6月30日まで
http://wilmatolksdorf.de/index.php?q=artist/view/244

サム・ペキンパー 「オスターマンの週末」

映画的フィクションと現実との境

サム・ペキンパー監督の映画 「オスターマンの週末」 (日本語タイトル/ バイオレント・サタデー) を見た。 (あらすじはここ)

まず最初の、CIA部員の妻が殺害されるシーン。
画像の質がテレビモニターのように粗い。なぜならその映像は、映画内の人物が見ているビデオなんだけれど、観客には初め、知らされていない。フィクションの中のフィクション? ストーリー内でも、この出来事が事実なのかあやふやのままにされている。

よく出てきて気になるのが、たった今までモニターを通して別の場所から観察していた人物が、観察されている人物の背後からふいに登場するシーン。私はビデオで鑑賞したんだけれども、そのシーンの度に、私の背後からもジョン・ハートが登場するんじゃないかという気を起こさせた。映画を見る観客自身までもが映画に取り込まれていく。

見る側と見られる側が逆転する瞬間もあった。人々をモニターを通して観察し続ける CIA 部員が、危機に応変して突然ニュースを読み上げる場面。人々はニュースに聞き入る。

後半はがっかり。なぜなら、監督は映画の虚構性そのものと対峙してると思いきや、いつの間にやら社会的メッセージ (メディア批判?) らしきものにすりかえられてしまうから。そういう意味で最後の、テレビのトリックはなかなかがくっとさせる。「わらの犬」 の終わり方が好きだっただけに・・・。

あらすじは?(はてな) なかんじで、よく意味がわからなかったりするんだけど、映画内のフィクションが、映画を見る我々の世界と交差する体験ができて、それは劇映画の強みだと思った。これは、アート的な作品ではなかなか出来ないのでは?

映画的フィクションを限界まで解体、追求した点で、必見。

トーマス・ヒルシュホルン 「スタンド・アローン」

世界をありのままにとらえる。

段ボール、ガムテープ、カラーコピー、ベニヤ板、ペイントスプレーなど、使われている素材は安物ばかり。そんな素材で、 トーマス・ヒルシュホルンは自身の住む世界、カオスが支配するこの世界を、解釈を通すことなく感受するそのままに提示したいんだそう。


それぞれの部屋の真ん中にははりぼての木の幹がどんと横たわっていて、観客の動きを不自由にする。かがんだり、またいだり、作品を壊してもいけないので結構大変。このはりぼての幹には、モニター状に画面がくり貫かれてて、人間の無惨な血みどろイメージがはめ込んである。
写真の奥に見えてる、床に積み重なる緑色の物体は、YOU とかかれた錠剤。見た目的にも大きさ的にも郵便小包みたい。この展示で目を引くオブジェのひとつです。

一部の壁には電話器、テレビ、コンピューターのモニターやキーボード、ファックスなど現代の情報メディアが壁にテープで縛りつけられてる。



部屋は4つに分かれていて、それぞれの部屋に作り物の暖炉がある。暖炉のサイズは現実よりも1.5倍くらい大きめで、形態の具体性に非現実性を付加して、シンボリックな表現に成功している。

全体的にもこの尺度のずれ (錠剤、木の幹、暖炉など) が、このごみに埋もれた展示室を異化させるのに成功してるように思えます。

暖炉には廃材がくべられていて、エロス、政治、美学、哲学の EWIGE FEUER (永遠の炎) が絶えることなく燃え続ける。暖炉の上には4つのテーマごとにそれぞれ本が山積みされいる。バタイユやドゥルーズなどいろいろ。重ねられてる本は紙にきちんとリストアップされていて、本の選択がすごく重要なことをうかがわせる。


表現自体は、ダダの流れを汲んでて、つぎはぎのなんちゃってな表現はおもしろいんだけど、メッセージがちょっと大げさでえらそう。でもこのエネルギーには脱帽。


展覧会INFO

Thomas Hirschhorn/ Stand Alone
Galerie Arnt&Partner

6月7日まで

ロナルド・ブラーデン

身体とオブジェの関係

アメリカのミニマル彫刻家ロナルド・ブラーデン (Ronald Bladen 1918-1988) の展覧会。

UNTITLED (CURVE), 1969

観客が中に立って体験する彫刻。オブジェの中に立って外を眺めると背後から威圧感が。


メルロ・ポンティの現象学の影響華やかなりし時代。彫刻でも身体との関係性を重視し始めます。

THREE ELEMENTS, 1965年

この作品も鑑賞者を取り込みます。黒く塗られたベニヤ板と、斜面はアルミ板。アルミ板は光を反射してる。この環境と共鳴する質感は、ベニヤ板の持つがっしりと跳ね返すような存在感とはまた違った印象を与えます。
ミニマルの元祖ロバート・モリスの柱 (1961年) と比較。


モリスはモダンダンスから出発してオブジェにたどり着きます。柱を一本ダンサーの代わりに舞台に立て、舞台の裾から紐で引っ張って倒しました。このパフォーマンスの数年後、この2本の柱が彫刻作品としてギャラリーに展示されます。

ブラーデンの柱で上辺の切り口が床面と水平ではないのはなぜでしょう?そのために柱が床に埋まってるようにも見え、さらにそこから展覧会場の建物自体までもが作品に取り込まれてるようにもみえます。それに、今にも倒れてきそうで、間に立ってみるとかなり危ない感じがします。・・・それにしても、どうして2本ではなく、3本なんでしょう?


THE CATHEDRAL EVENING, 1969/1971年

3本柱の向こうに見えるのが、戦車を想わせる、重量感と威圧感のあるオブジェ。


ROCKERS, 1965年

このオブジェだけはなぜか、他の作品とは違って観客が中に入り込めないようになっている。カーブを描く底面には板が挟めて固定してある。これを外せばオブジェが前に倒れてしまうという感覚を起こさせる。また、他の作品が白黒モノトーンなのに対して、これはエナメル質の塗料で黄と黒に塗り分けられている。ここから連想するのは交通標記や工事現場の色、危険や注意を促す機能を持つ色。オブジェの周りをうろうろしすぎて疲れたと思ったら、ちょうど腰掛けられる高さ。タイトルはRockers (ロッキング・チェア)。


いい展覧会だった。 (と、わたしの年代では思ってしまう。ただの懐古趣味?)

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展覧会INFO
ロナルド・ブラーデン 展
新ナショナル・ギャラリー、 ベルリン
Ronald Bladen / SkulpturNeue Nationalgalerie
2007年5月6日まで

2007年3月7日水曜日

もぐらケーキ


Maulwurfkuchen (もぐらケーキ) を作りました。
これは売ってるケーキミックスでつくります。ココアのスポンジにバナナ風味のクリームと本物のバナナ。

ところでドイツはもぐらが多いです。その辺の林にテントを張ると夜中に下から背中をつつかれます。

2007年3月6日火曜日

スーラの額縁

現実を捉えなおす

ドイツ・グッゲンハイムでの展覧会 「アルカディアとアナキズム、分離派・後期印象派」 にて。

スーラは絵だけでなく、絵をを縁取る額縁まで点描で埋め尽くす。もともと幻影 (イリュージョン) である絵画表面をスーラは光の点に分解して対象物の物質的存在感を無くし、さらに現実の物質である額縁でさえも点描で埋め尽くしてその物質性を剥奪しようとするように見える。フィクションである絵画から出発し、目の前の物質世界さえもを光の粒子に分解し、「現実」 自体を解体しようとする画家の意思。

こちらは通常の額縁つき。我々の現実世界と絵画的イリュージョンの境界はきっちりと分かれている。


展覧会: Arkadien&Anarchie, Divisionismus- Neoimpressionismus
ベルリン、ドイツ・グッゲンハイム美術館
4月15日まで


2007年3月5日月曜日

硫黄島からの手紙

を見た。おもしろかった。純粋にアメリカ映画だった。
わたしはこの映画を前半と後半に分けて見た。

前半。アメリカにいたことがあり合理的思考を持つ栗林中将が島にやってくる。かれはアメリカにいたこともあり、その西洋的な合理的思考が部隊内に衝突を引き起こす。そしてひらひらのブラウスを着て戦地で乗馬をしてしまうバロン西。この西洋規格化した日本人ふたりの存在が、部隊内の日本兵の非合理な思考 (玉砕など) を浮き彫りにして、日本兵がいかに西洋人には理解不能な異なる思考回路で戦いに挑んでいたことが明らかになる。その存在が非現実的で怪しすぎるバロン西ではあるけれども、そういった意味で、フィクションとしてこの思いっきりバタ臭い (死語) 二人を据えた設定はうまくいってると思う。また栗林とバロン西が大きな体格を持ちエレガントな物腰で西洋人に近いのに対し、他の日本兵がいかにもな日本人的外観を持つことにも目がいく。

後半は、前半においての日米の精神の違いを浮き彫りにするトーンから一転して、日本兵も米兵も同じ人間であるという普遍性を強調しはじめる。そのための小道具が家族に宛てた 「手紙」。その手法は申し訳ないけどちょっと平凡すぎの感も。またバロン西が読み上げたアメリカ兵の母親からの手紙の一文 「自分が真実だと思う道を進みなさい (ちょっと詳しくは思い出せないけど、そんなような内容)」 が、あれだけ思考回路が異なるということを見せ付けられた日本兵に実際理解されるのかという疑問も沸く。またバロン西と栗林中将の最期も、この二人があそこまで西洋的だっただけに、日本的思考から導き出される自決がとても不釣合いな気がしてしまった。











この誇張されすぎのバタ臭さは何のため? 映画鑑賞中はバロン西に目が釘付けでした。「はいからさんが通る」 の少尉みたいです。さすがに金髪ではないけど。

2007年2月28日水曜日

L.A.CRASH

「車」 を介した間接的な因果関係

アメリカには一度も行ったことがないのですが、話に聞くところによると、みなさんが車を持っているそうで。一戸建ての家から外へ出るときはいつも必ず車、仕事に行くときはもちろん、買い物に行くときも。なので近所の人と道端でばったり会って立ち話、なんてないそうです、聞いた話によれば。それから、ドイツに住んでると思いもよらないことなのですが、人種ごとの住み分けがずいぶんはっきりしているそうです。
この映画で見る限り、車の中は極プライベートな空間らしい。車の衝突事故、盗難、警察による取調べ、ヒッチハイクなどによって初めて、人々はそのプライベートな空間から一歩外に出て (あるいは他人を中に入れて)、見知らぬ人同士が接触することになる。

2007年2月26日月曜日

セックスワーク/ 芸術 神話 現実

社会の認識のしかた

クロイツベルクにある NGBK (Neue Gesellschaft für Bildende Kunst) という非営利のギャラリー主催の展覧会。ここは普段から社会学的アプローチに偏ったコンセプチャルな企画展が多いんだけれど、今回もタイトルは 「セックスワーク」。「性を売る」 こと、またはもう一歩踏み込んで 「性」 そのものを、社会的問題あるいは個人の内的問題として扱っている美術作品から構成されている。問題点への切り込み方が実にさまざまな中で、目に留まった作品をピックアップ。

「ワーキング・ユニット Z01」 Tadej Pogačar, Anja Planišček
これはあらゆる場所に仮設できる売春のための簡易施設なんだそう。性的欲望は押さえつけずに合法に解放させた方が得策であるとし、社会において売春が安易に肯定されていることをアイロニカルに指摘する。


「メモリアル」 クリスティアーノ・ベルティ Christiano Berti
合計18枚の写真シリーズ。1993年から2002年の間にイタリア、トリノ郊外で計19人の売春婦が就労中に殺害された。過去に惨事の起こった現場を探し出し、その風景を記録する。写真が撮影されたのは2001年から2002年にかけて。展覧会場ではジェンダーの学者が記事を書いた読み物が配布されていてそれによると、売春婦を求める男性客は何かしらの社会的なプレッシャーを受けていて、そのプレッシャーを買春を通して解放したいんだそうな。例えば男として認められたい、とか。そういったプレッシャーをエロスとして昇華できなかった場合に、その暴力が誤った方向へと走る危険が伴うのだそう。悲惨な出来事にも関わらずベルティの風景写真にはある種の距離感が漂う。気に留めることなく通り過ぎてしまう空虚な風景はまるで、そんな狂気に走る瞬間の理性の及ばない心のふとした間を見ているよう。


セックスやSMプレイを通した自己認識、自己実現をポジティブに表現している作品がいくつかあった。 (下の写真のビデオ作品の作者は誰だかわからなくなってしまいました。ラテックスのスーツの女性が作家らしい。) ばりばりのコンセプチャルな作品に囲まれて、ブブ・ド・ラ・マドレーヌさん BuBu de la Madeleine のビデオ 「売女日記/ お客と一緒に撮るポルノ 」 の詩的、私小説的な映像作品は目をひいた。

ところでビルギット・ハイン Birgit Hein の16ミリ映画 「Baby I will make you sweet」 をまた発見。個人的に好き。女主人公がジャマイカに旅行し、そこで知り合った黒人の若者との情事をあけっぴろげに記録。最初の車窓からのドイツの雪景色からジャマイカの熱帯林へと替わるところが好き。それと映像が荒れててきれい。あとこの人が好き。


「神のうつわ」 クララ・S・ループリッヒ Clara S. Rueprich
暗室内に向かい合わせに映写される二つの室内風景。教会と売春宿。修道女と売春婦の独白が同時に聞こえる。キリスト教ではイエスを産んだ聖母マリアは「神のうつわ」 とみなされることから、作家は修道女と売春婦に同じ質問をする ― 神、お金、肉体、社会との関係。精神的な存在である修道女と肉体派の売春婦。 「私の魂は肉体の形をとってしか他者に伝達することができません」 この修道女の言葉は、修道女と売春婦、社会において両極に位置する女性の役割が、実は非常に類似することにも気づかせる。一つの社会の中に作り上げられる2種類の女性像。それは、ひとりの女性の中に存在する聖性と俗性でもあり得るし、ひとりの人間の中に存在する精神性 (修道女) と肉体性 (娼婦) でもある。お互いはお互い無しでは成り立たない。精神は肉体に宿り、肉体は精神を内包する。


ドラッグ中毒の女性と一人のおかま。エヴァ・マリア・オッカーバウアー Eva Maria Ocherbauer の壁面作品。


「家」 ガブリエレ・ホルンダシュ Gabriele Horndasch
スライドに手作業で刻まれた単語。 Steckdose (コンセントの差込み口) Sumpfblüte (沼地に咲く花) Stundenbraut (時間制花嫁) Täubchen (小鳩ちゃん) Tempeldienerin (寺の侍女)、などなど娼婦、売春婦の類語は600にも及ぶ。そのような言葉の置き換えは、肉体行為そのものの生々しさを覆い隠し、性を商品としてみることを促しているんだそう。



それにしても、作品を鑑賞するというよりは、読み取りに忙しかったです。面白いんだけど。ところで、こういうNGBKがよくやるような、社会の姿を新たな視点から改めて認識させようとする行為を芸術の使命とする考え方って、カール・マルクスの芸術論とは関係あるのでしょうか?この疑問はもうちょっと私の中で暖めておく。

展覧会: SEXWORK. KUNST MYTHOS REALITÄT

会場はベルリン各地計3箇所

SEXWORK 1: Neue Gesellschaft für Bildende Künste e.V.

SEXWORK 2: HAUS am KLEISTPARK

SEXWORK 3: Kunstraum Kreuzberg/ Bethanien


3つの展覧会場にはそれぞれこんな勉強部屋が設置されていました。資料を閲覧できます。

2007年2月25日日曜日

もうすぐ春


オストクロイツ駅近くのある曲がり角にて。

旧東ドイツの公共オブジェはこんなほのぼのとした庶民派ものが多いです。メルヘンのモチーフなんかがよく見られるのは、労働者が主権を持つ国家では政治的支配者の像なんかは立てまいという社会主義の考え方が、多かれ少なかれ影響してるらしいです。でもその同じ思考回路から、城とか教会などの歴史的建造物が壊されてしまったりもしたらしい。ベルリン大聖堂の前に建っていた城とかライプチヒのパウリーナー教会とか。

ベルリン市城は戦後の社会主義ドイツにおいて、プロイセンの絶対政治を象徴するからと非難され取り壊され、その跡地には「文化宮殿」 と呼ばれる市民のための文化複合施設が建てられた。その旧東独の文化宮殿はドイツ統一後またもや取り壊され、現在はまたかつての城をそこに再建しようと一部の人々が資金を集めたりしてがんばってるらしい。でもその文化宮殿を取り壊す考えと、かつてベルリン城を取り壊した考えの根っこは全く同じでは、という疑問もわく。しかもそこにまた昔の城を建てるとは。

ライプチヒ大学の正面、レーニン・マルクスのレリーフの掛かる壁面にはそのレリーフを覆うように赤い三角形の鉄枠が架けられている。その形状は、かつてそこに建っていたパウリーナー教会の屋根のかたちを模す。パウリーナー教会はもともとライプチヒ大学付属の教会だったが、マルクス主義の考え方から学問 (科学) と宗教とが一体となっていることが批判され、取り壊されたのだそう。ここも再建運動が起きてるらしい。

ついこの間までの過去をとことん否定してもみ消そうとやっきになり、それよりさらに遡った過去にここまでこだわるのって、ちょっと考えが逆転してるようでこわい気が・・・。でもどうなんでしょう。古い町並みを歩くのは (それが作り物とわかってても) やっぱり落ち着きますし、東ドイツのプラッテンバウはキッチュとして大目にみてもやっぱり醜いことが多いですし。

2007年2月23日金曜日

ニュートン- ラシャペル- ナクトウェイ (+ ドゥパルドン)

写真 = 現実?

ベルリンZOO駅の裏側のヘルムート・ニュートン写真美術館に行ってきました。
一階の展示場には、ニュートンの所持品、服、部屋の再現、撮影風景の記録ビデオ、展覧会のポスターなどが展示されている。遊び心あふれる人となりを思わせる遺品たち。壁に張り巡らされた展覧会ポスター群には、広告という目的から来るのかかなりいいところをついた作品が選択されていて、それはまた私たちが思い描くニュートン写真のイメージを強固にしていく。それらの写真の醸し出す気高いエロスにびっくり。モデルの表情やポーズ、小道具との組み合わせから生み出されるエロス。それを彼の人となりを示す展示と合わせて見ると、そのエロスは彼のユーモアの感覚を異化させたものなのか、とも思わせる。

ニュートン- ラシャペル- ナクトウェイ

赤絨毯の階段を上った二階の展示場には、ニュートンの映画俳優、ポップスター、政治家などの男性ポートレートと並んで、商業写真家デビッド・ラシャペル(David LaChapelle)、戦場写真家ジェームズ・ナクトウェイ (James Nachtwey) という全く異なるフォトグラファー二人の作品が展示されている。この繋がりがありそうで無さそうな不思議な3人展のタイトルが 「MEN, WAR & PEACE」 男と戦争と平和。

実は私がこの展覧会を訪れた理由は、ラシャペルのハリケーン通過後の破壊された家の前で子供を抱いて立つモデルの写真。でも展示には正直いってがっかり。そのハリケーン写真以外の数点を除いてほぼ全部ダメ。まずプリントがインクジェットのクウォリティーそのもので、またその質の悪さを逆手にとってものにするところまでも行ってないような。展覧会することになったので慌てて拡大、プリントアウトして額に入れて美術館に飾りました! といった即席な救いのなさが漂う。ファッション雑誌というメディアが彼には一番合ってるのではないでしょうか。悪口では全くなくて。



もうひとりの写真家ナクトウェイは 「戦場フォトグラファー」 なんだそう。すごい肩書き。劇的な一瞬を、完璧な構図とコントラストで捉えてる。ものすごくプロフェッショナル。でもなんか不思議。悲嘆にくれる女たちや、死の影に不安を覚える戦場の少年 (実際の人影でシンボリックに表現されてる) など、どこまでが写真家が主観的に 「切り取った」 フィクションでどこからがありのままの現実なのか、考えれば考えるほどわからなくなる。作家の意図とはまた別に、観る者の投影も入り込んでくるし。ここで頭を抱え込んでいる少年は絶望しているように我々の眼に映る。でも実際に絶望しているのかはわからない。背中がかゆくて掻いてるだけかもしれないし、またこの写真が撮られた場所が実際に戦場であるかの証拠も何も無い。

そう考えてみて初めて、このナクトウェイの実は意図的なプレゼンテーション、ラシャペルのうそであることを包み隠すことのない過剰演出、そしてニュートンがやって見せる被写体との共同作業としての演出とが交差してくる。

(+ プラス) ドゥパルドン

さらに階段を上った最上階、屋根裏だからなのかしらやけに薄ら寒い部屋では、もう一つ別の企画が催されている。フランスの写真家レイモン・ドゥパルドン (RAYMOND DEPARDON) による映像インスタレーションと写真の展覧会 VILLES/ CITIES/ STÄDTE 都市 都市 都市。 (ここで展示作品のスライドショーが見れます。ページ右下の Diashow starten をクリックしてみてください) 階下の3人展の演出過剰気味な写真群とは鮮やかな対比をなすように、ドゥパルドンは自身の主観や感情を決して介入させないよう可能な限り被写体との距離を保とうとしている。特に映像作品。観客をぐるりと取り囲む計12のスクリーンにはカイロ、上海、ニューヨークなど世界各地の街の日常的風景が同時に流される。道を横断、通行する人々。時にカメラはその中の一人を捉え一瞬追いかけるが、人物はすぐに雑踏の中に消えていく。作家は各都市に3日滞在制作、写真機と16ミリカメラ、5分間長のフィルムカートリッジ10本を抱え、演出・再撮影は一切せずに制作する。そういった主観に左右されてしまう要素を排除しようとする制作スタイルは、世界をどれだけありのままに見ることが出来るのかの挑戦のように見える。

写真は 「真を写す」 と日本語で表記されるように 「物理的に」 現実を写し取るけど、それは本当に私たちにとっての現実と呼べるのか?ある事実が個人の目を通して切り取られ、ある瞬間故意にシャッターが切られる時、そこに作家の意図やまた観る者自身の投影が入り込むことが避けられない。ナクトウェイの完璧にドラマチックな写真がドキュメンタリーと呼ばれる時、ドキュメンタリーってなんなんだろう、と考えてしまう。もし写真も映像も、絵画と同程度の虚構性を含むとしたら、絵画もある時にはドキュメンタリーと呼ばれていいはずなのに・・・? 写真における 「現実」 って、写真があくまでも 「物理的に」 物事を写し取るという私たちの機械信仰のあらわれに過ぎないのでは。

NEWTON-NACHTWEY-LACAPELLE, "MEN, WAR&PEACE" は 2007年5月20日まで

RAYMOND DEPARDON, "VILLES CITIES STÄDTE" は 2007年4月1日まで 写真美術館ヘルムート・ニュートン財団、ベルリンにて

この写真美術館のある動物園駅の裏側は、福祉施設もありホームレスの溜まり場。ここを通るたびに西ベルリン映画 「クリスチーネ F/ われら動物園駅の子どもたち」 を思い出してしまいます。麻薬中毒の子供たちは居ないけど。ひょっとして今居る彼らが当時の子供なのかしら。

2007年2月11日日曜日

建築家の腹

街はベルリン映画祭で盛り上がってるみたいです。このイベント、なんか嫌。参加しようと意気込んでも一般人にはチケットが手に入るのか直前まで分からないし (聞いた話ではジャーナリスト優先で彼らが会場に入った後で残りの席を一般に売るからだそう)、短い期間にみっちりとしたスケジュールで、「見逃した」 感をずいぶんと募らせてくれるからです。それを逆手にとって 「さて、わたしは今現在何を見逃してるのかしら・・・」 とプログラムをめくってみたり。そんなひねくれた楽しみ方しか許してくれないこのベルリナーレと暮れのクリスマス市が、私にとって憎くてしょうがない2大年中行事です。

その映画祭にシンクロさせた企画だと思うのですが、ピーター・グリーナウェイが大学で講演をするというので予習のつもりでDVD を借りてみました。とはいえなんかめんどくさくなってしまって実際の講演会には行きませんでした。ベルリナーレが憎いといいつつ、実は怠惰な自分が憎いのかもしれませんね。
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「建築家の腹」 ピーター・グリーナウェイ

ローマの全体主義的なばかでかい建築物を背景に繰り広げられる人間くさいドラマ (あらすじ)。現代に生きるアメリカ人建築家が主人公。 (歴史の深遠さや異文化に打ちのめされる現代人の姿を描こうとするときに、アメリカ人を主役に据えるのはよく踏襲されるパターンのような気がする。シェルタリング・スカイとか)

- その設計が、現実には何一つ実現されることなく消えていった18世紀の建築家ブーレ。彼の展覧会を企画する現代建築家。そのアイデア故に偉大である過去の建築家と、またそのアイデアのみで構成された展覧会を企画する現代の建築家。この純粋な観念性と、背景に映し出されるローマの堅牢な巨大建築物。 (観念性と物質性)
- 石で出来たローマ歴代の皇帝は時間に耐え、その腹は病理に蝕まれることない。生身の建築家の腹は時間と共に癌に蝕まれていく。観念世界の恒常性と人間の肉体のはかなさの対立。 (精神と肉体)
- その人間である建築家は妻の腹に子を宿し、自分の腹に癌を巣食わせる。子供の誕生と同時に窓から身を投げる男。(男と女、死と誕生)

これら二項対立の思考は徹底した左右対称、一点消失の構図として視覚化される。

フェリックス・ゴンザレス=トレスの正方形

また正方形です。なぜかというとミニマル/ コンセプチャル・アート華やかなりし時代の作品だから。カール・アンドレにも似た床面インスタレーション。この上を歩くことは出来ないけど (出来るのかしら?でもまがりなりにも食べ物だから踏みつけはご法度)、飴を取って食べれます。おいしくは決してない。この手のコンセプチャル作品、作家の意図を理解するにはまたいろいろ読んでからじゃないと分からない。そういうのたまにめんどくさくなる。ハンブルガー・バーンホフの正面入り口入ってすぐのインスタレーション。
展示期間等、不明。

2007年2月8日木曜日

ウィリアム・ケントリッジ 「月世界旅行」

作家の自画像

また、木曜のただの日にハンブルガー・バーンホフに行ってしまいました。南アフリカ出身の白人作家ウィリアム・ケントリッジの作品を美術館が購入したということで、お披露目の展示がありました。
大きい暗いホール内に映写スクリーンが大小合計8つ。作家自身が自分のドローイングの前を行ったり来たりしながら描いては消し、思考する創造のプロセスが小さいフォーマットでいくつも映写される。作家はドローイングの向こうに側に何かを見極めようと躍起になる。壁にかかる数あるドローイングの中には日本人にも馴染みの深い小説 「星の王子さま」 に出てくる帽子 (あるいは象を飲み込んだうわばみ) のイラストに似たものもあって、そんなところからも作家の思考を垣間見せる。
そういった様々な切り口から自らの制作プロセスを見せる小作品に囲まれる中、ホール正面には編集の少し凝った映像作品が他より大きめに映写されている。これがメインの作品らしい。こちらもアトリエで制作する作家自身が主人公。逆さにしたエスプレッソのカップを望遠鏡のように使って、台形の真っ黒く塗り潰されたドローイングの表面を覗き込む (写真上)。夜の闇のように、或いはコーヒーの粉のように黒いドローイングの向こうに見える風景の中でエスプレッソの受け皿は月となって空に昇り、エスプレッソ・マシンはロケットとなり地上から発射する (写真下)。
ところでタイトルは 「Journey to the Moon/ 月世界旅行」、1902年にジョルジュ・メリエスにより製作された映画と同名。ケントリッジによると、このメリエスの映画の背景には19世紀後半の植民地主義的な思想が入り込んでいるんだそう (未開拓の野生の地に進出する文明)。ケンブリッジの作品において月面の風景は、自身の出身地である南アフリカの風景と同化する (しかしここではその風景はロケットが発射する地として表現される)。
いつしか裸の女性が作家の背後に寄り添う。作家はその存在にぼんやりと気づきはするが実在をはっきりとつかむことは出来ない。美の女神に寄り添われるクールベの自画像 「画家のアトリエ」 を想わせる。寓意を通した、芸術家である自身の存在表明。

William Kentridge / JOURNEY TO THE MOON
ベルリン・ハンブルガー・バーンホフ現代美術館
2007年5月6日まで

2007年2月7日水曜日

ミニマルオブジェの空っぽさ

ホロコースト記念碑について物申したあと、自分で書いた 「現代美術の形式という空っぽな入れ物」 について何なのか少し考えてみた。60年代ミニマル以降いろんな意味が詰め込まれたキューブがたくさん製作されている。 この場を借りていくつか挙げてみます。

元祖: ロバート・モリスの人柱 (1961)。まるで見知らぬ人が隣に立ってるみたいな 「擬人性」 からマイケル・フリードに批判されたモリスの人型オブジェ。



ハンス・ハーケのエコシステム・イン・ザ・ボックス (1968)。立方体内で水が蒸発して再び水に循環。


ブルース・ナウマンのコンクリートのかたまり (1968)。中にはテープレコーダーが埋まってて音が出るらしい。コードから電流を充填する。


ソル・ルウィットの入れ子キューブ (1966)。観念的な箱の中の箱。さすが有名作品だけあって、他よりずいぶんひねりがあります。


そしてエイドリアン・パイパーは文字通り意味をつめこむ (1968)。


ところでロバート・モリスの人間大オブジェは、その存在感で観者を圧倒しようとすることのみで成立しているという点において、ベルリンの 「ホロコースト記念碑」 に通じるものがある気がする。ひょっとしてこんな風に記念碑に応用されてしまうもやもやした現前 (Presence) こそが、マイケル・フリードが 「演劇的」 として警戒し、否定しようとした点なのかしらとふと思った。どうなんでしょう。

マイケル・フリード 『芸術と客体性』(Michael FRIED, "Art and Objecthood")
これがその高名なミニマル批判の論文です。