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2010年5月16日日曜日

ポール・シュレイダー『MISHIMA』

Mishima: A Life In Four Chapters



プレンツラウアーベルクのマニアックなレンタルショップ Negativland で VHS を借りてきました。
フィクションの部分への導入からその演出などなど、いい作品でした。

三島で思い出したのですが、昨年、大江健三郎氏がベルリン滞在した際に Haus der Kulturen der Welt で講演と朗読を兼ねた会が催されました。ドイツで翻訳出版されたばかりの「さようなら私の本よ!」の内容についてベルリン自由大学の比較文学科の教授がインタビューをしてそれに答えるという形式でした。

そこでテーマになった「三島問題」。

ちょっと前のことなので記憶に自信がないのですが・・・
三島由紀夫の場合、小説を書き始める時に、既に最後の一行が決まっている。そういった仕事の仕方、ならびに三島の美学を大江氏は「静的」と批判されていました。そして・・・

・・・講演を聞いた当時は感銘を受けたはずが、すっかり内容を忘れております。

確か、その静的な美学が三島を自決に導いた、というようなことを言っていたと記憶していますが。。。

この映画は、大江氏が話されていたような、三島美学の閉塞感を感じさせるのでした。

2009年9月23日水曜日

フォン・トリアー『アンチクライスト』

ラース・フォン・トリアーの新作 『アンチクライスト』 を観て来ました。



ネタばれを含む感想 (読むには反転して下さい):

主人公夫婦がセックスに没頭している間、幼い息子は窓際のテーブルによじ登り、窓から転落して死亡する。それをきっかけに精神のバランスを崩した妻を自ら治療すべく、セラピストの夫は妻と共に森の中の別荘へと出かけていく。

深層心理と森のメタファーや 「3人の訪問者が揃ったら人が死ぬ」 といったシンボル性はなんとなくデヴィット・リンチ、妻が論文を書きながら精神のバランスを崩していく筋立ては 『シャイニング』 という感じがしました。

映画の後半で妻が見るフラッシュバックによって、実は彼女は息子が窓へとよじ登ってる姿を目撃していることが明かされます。そのシークエンスから、妻が息子を止めなかったという罪の意識からかえって性に憑りつかれ、また性を否定 (性器を傷つける) しようともする別レベルでのプロットが読み取り可能になります。

ただ、このエピソードは単純な種明かしに陥ってしまい、作品に謎めいた奥行きを与えるのではなく平坦にしてしまっているという感を受けました。

首を絞められるシャルロット・ゲンズブールがリアル。

2008年11月9日日曜日

ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』

映画を使った映画批判

ギー・ドゥボールの映画『スペクタクルの社会』をソニーセンターの地下にあるアルセナールで観た。


ドゥボールが1967年に発表した同名の著書『スペクタクルの社会』の著者本人による映画化。

思想の内容はまず置いておいて、感心したのは、思想を伝えるために映画という形式を取ったことが、文字を追って理解するのとは全く別な意味の構築・生成の仕方をしていること。
映画では、様々なフィルムの断片が繋ぎ合わされ、そこに著書の朗読 (本人による?) そが重ねあわされる。提示されるのは、商品のテレビコマーシャル、セクシーな女性達、高級車、戦争映画や西部劇映画、戦争の実録映像、など。

延々と哲学的内容の朗読が続く他は、ところどころに他の思想家の引用が字幕で表示される。

戦争がエンターテイメント化(スペクタクル?)された映画に続いて、市民の市街戦の実録映像が映される。そこに作家のテーゼ、「近代の生産条件が支配する社会では、生はスペクタクルの膨大な集合として現れる。直接体験されたものは全て、表象の中に消え去っていく」が重なる。

「表象」というのは、ある物(思想や体験など)映画やコマーシャルなどの媒体によって表現化されること。

全ての現実がエンターテイメント化され無となっていく社会を資本主義の悪として批判。そのアイデアの基本を成しているのがエンターテイメントとしての「映画」の存在だというのは、私の個人的意見。

その映画批判を、映画という形式で、映画館で観るのが、銀幕の外で起きる体験として重層さを与えている。

2008年9月14日日曜日

ポランスキーの『死と乙女』

ロマン・ポランスキーが75歳になるそうで、ここベルリンで最近取り上げられてるのを見かけます。

むかし映画館で観た「赤い航路」は楽しめたし、子供の時にテレビで観た「テス」は主人公がきれいででもかわいそう過ぎてちょっとトラウマ化してた。といことで、ポランスキー監督にはけっこういい印象があったのですが、「ピアニスト」「オリバーツイスト」と最近観たどれもダメだった。今から考えると「ナインスゲート」からダメは始まってたかも。

最近ちょっと話題だし、昔の作品はきっといいんだろうと思い、DVDを借りてきました。タイトルは「死と乙女」。でも1994年の作品で、そんなに古くはない (他の作品と比較して) みたい。

でも、よく出来てた。

登場人物は3人だけ (電話の声だけでの登場が他に二人ほど)。多少の戸外撮影を除くと、ほぼ完全な室内劇。原作は劇用の台本だったそうで、映画になっても台詞回しに物語進行が頼りすぎのところなどにその名残は残されています。

最初は誰もが、主人公の女性はつらい過去のあまり狂ってしまった、と思う。彼女の夫が思うように。

劇が進行するにつれ、主人公が過去にどんな経験をしたのかが徐々に明かされ、観客の感情も頂点に達し、本当にこの男が加害者であったのなら、裁かれるべき!と主人公に完全に感情移入してしまいますが、でも同時にこの男は本当は無実なのではという疑いも払拭できません。

でも断崖で死を目前にして初めて、男が自分の言葉で赤裸々に事実を語り終えたとき、私も女主人公と全く同じ脱力状態。もういいから帰って、という気持ちに襲われた。その辺の心理描写に説得力があるというか、心理描写が描写に留まってなくて観客の心理をも完全にフィクションの中に引きずりこんでる。で、観客の心理をほぼ代弁してるのが夫の行動。

断崖での告白もすごくおぞましい反面、悪ってどっから来るんだろう、と考えさせられる。男の平凡さもよく描かれていたし。

舞台設定・小道具も完璧。
南米のかつて独裁政権に支配されていた国、政治的活動をする弁護士の夫の立場。
冒頭で、ラジオから流れる事故報道に続いての政治犯虐待についての報道に聞き入る女主人公。
男が当時の加害者であることを証明する「死と乙女」のカセットテープ、ニーチェの引用、電気コードの使い方。

完璧な脚本とポランスキーの職人技の結晶でしょうか。
良質のフィクション。

2007年8月23日木曜日

野良犬

という映画を観た。 こちらでは黒澤明作品と銘打ってDVD化されてるが、ネットでみたら黒澤明は演出を担当したらしい。

野良犬(1949) - goo 映画

終戦から4年後の製作。

刑事と犯人、引き上げ兵という似た過去を持つ二人の男。
その過去が二人の現状を支配していることが繰り返し暗示される。
刑事は何かしらの罪の意識にさいなまれそれを昇華しようと犯人を追い求める。
犯人は過去に苦しめられ、そこから逃げようと犯罪に走る。
このモチーフが物語の進行軸の基盤におかれ、人物の背負う過去自体が映画枠内の外側にあるところが、この映画を良質にしてる。と思う。

2007年6月25日月曜日

デヴィッド・リンチ 「インランド・エンパイヤ」

ウサギの部屋。



ローラ・ダーン演じる女優ニッキー。いわくつきの呪われた映画を撮影していく中で現実と虚構の境目がつかなくなってくる。繰り返し挿入される泣きながらテレビを見る若い女性。ウサギのいる部屋。劇場の舞台のようにカメラ目線は固定されている。ウサギたちは意味をなさない会話を交し合い、バラエティー・ショーの人工的な笑い声が空しく響き渡る。


映画が進行するにつれ、テレビを覗き込む女性がポーランドに居ることがわかってくる。ニッキーの夫とポーランド女性の夫とが同じ男優に演じられるあたりから、この二人の女性がシンクロし始める。

この映画を、ハリウッドとポーランドの二つの世界があることを前提に見てみると、意外とすっきりする。ローラ・ダーンのハリウッドの豪邸とポーランドの女性が住む家。ハリウッドのメインストリートとポーランドの裏町。きらびやかな世界に誇るハリウッドとヨーロッパの奥に潜むうらびれた世界。映画スターとディレクター達の住む世界と、娼婦達の住む世界。

ローラ・ダーンはスタジオに建てられた映画用セットを通じてこちらとあちらの両極を行き来きする。映画セットはここでメディア (媒体) の役割を果たします。かわいくて滑稽で不気味な、ウサギの部屋は、デヴィッド・リンチ監督にとって、テレビや映画などのメディア世界なのではないでしょうか

こういう点で、プロット的には鏡の国のアリスなんかと比較できるかも。

でも、この映画で何よりも特筆すべき点は、あのいつまでたっても出口のないずるずると引っ張られる感じ!ローラ・ダーンが一度ナイフで刺されたあと、はー、やっとこれで終わりかと思ったら、さらにこれでもかと再び迷宮に入っていくところでは、さすがに体力の限界を感じました。でもこの出口のないずるずる感に身を委ねられたら結構心地いいかもしれません。



映画セットの窓を通したこちらとあちらの世界。ローラ・ダーンはあちらに入り込んでしまいました。

日本公式サイト: http://www.inlandempire.jp/index_yin.html

2007年5月30日水曜日

ソビエト映画 「Come and See」

戦争末期 1943 年の白ロシア。15 歳の少年フロリアンは母親の反対を押し切ってパルチザンに参加する。森の中で空爆を受けるところから彼の苦難が始まる。空爆を逃れて家に帰るが、家族はドイツ軍に虐殺された後だった。そして隣村で村人が納屋に閉じ込められ生きたまま納屋ごと焼かれるのを目撃する。その後村人を焼き殺した加害者たちがパルチザンに捕らえられ、行為を追及される。命令を下した隊長は 「これは戦争だった」 「自分はこの手で一人も殺してはいない」 と証言。加害者側に立っていたロシア人たちは 「俺たちはドイツ人じゃない」 と口々に叫ぶ。彼らは銃で処刑される。フロリアン少年は路上に放置されたヒットラーの肖像に怒りを込めて発砲する。その途端、映画は逆回しで時間軸を遡りはじめ、戦争の発端、ナチスの台頭からヒットラーの赤ん坊時代の肖像に行き着く。そしてフロリアン少年の呆然とした表情で映画は終わる。

この映画のすごいところは、ハリウッド映画みたいなセットを作り上げないで、人物を普通の風景に配置するだけで物語を作っているところ。私の記憶では、フロリアン君のお家と隣村の納屋以外映画セットらしいものは何もなし。最初のシーンは砂丘。空爆を受けるのは森の中。家族が殺されたことを知った後では、延々と泥沼を渡っていく (このシーンはすごい)。

そして何も起きない平和なシーンが延々と続いたりと、時間は常に主観的に流れていく。

ハリウッド映画に見られるような映画的お膳立ては一切無く、では何が物語りを形作っているのかというと、それは群衆と自然と、そして登場人物の表情。エスカレートする暴力がだんだんと変わっていくフロリアン少年の表情で生々しく表現されている。

少年に付き添う少女の存在が象徴的に描かれる。

フロリアン君は暴行を目撃し証言者となる。目撃したことは記憶されるが、もし証言者がその記憶と共に居なくなったらその目撃された事実も消え去ってしまうのか。全てのユダヤ人が抹殺されるということは、すべての証言者までもが抹殺されるということにつながる。歴史にはユダヤ人が存在しなかったことになってしまう。
映画内には叫び声や罵声、独り言以外、状況を説明する類のまともな台詞が一切無く、リアルな映画セットも無く、全てが芝居じみていて夢の中の出来事のようにも思える。こういった手法が歴史的事実と主観的記憶の関係の曖昧さをうまく表現することに繋がっている。



ところで、ソビエトでは映画産業がものすごく盛んだったそう。それがテレビや新聞など主要メディアの検閲が厳しかったためであったとは良くいわれるところ。映像表現のメッセージとしての曖昧さが、当局の検閲に対して盾となったんだそうです。

おもしろいですね!

1985 年製作。

2007年5月15日火曜日

サム・ペキンパー 「オスターマンの週末」

映画的フィクションと現実との境

サム・ペキンパー監督の映画 「オスターマンの週末」 (日本語タイトル/ バイオレント・サタデー) を見た。 (あらすじはここ)

まず最初の、CIA部員の妻が殺害されるシーン。
画像の質がテレビモニターのように粗い。なぜならその映像は、映画内の人物が見ているビデオなんだけれど、観客には初め、知らされていない。フィクションの中のフィクション? ストーリー内でも、この出来事が事実なのかあやふやのままにされている。

よく出てきて気になるのが、たった今までモニターを通して別の場所から観察していた人物が、観察されている人物の背後からふいに登場するシーン。私はビデオで鑑賞したんだけれども、そのシーンの度に、私の背後からもジョン・ハートが登場するんじゃないかという気を起こさせた。映画を見る観客自身までもが映画に取り込まれていく。

見る側と見られる側が逆転する瞬間もあった。人々をモニターを通して観察し続ける CIA 部員が、危機に応変して突然ニュースを読み上げる場面。人々はニュースに聞き入る。

後半はがっかり。なぜなら、監督は映画の虚構性そのものと対峙してると思いきや、いつの間にやら社会的メッセージ (メディア批判?) らしきものにすりかえられてしまうから。そういう意味で最後の、テレビのトリックはなかなかがくっとさせる。「わらの犬」 の終わり方が好きだっただけに・・・。

あらすじは?(はてな) なかんじで、よく意味がわからなかったりするんだけど、映画内のフィクションが、映画を見る我々の世界と交差する体験ができて、それは劇映画の強みだと思った。これは、アート的な作品ではなかなか出来ないのでは?

映画的フィクションを限界まで解体、追求した点で、必見。

2007年3月5日月曜日

硫黄島からの手紙

を見た。おもしろかった。純粋にアメリカ映画だった。
わたしはこの映画を前半と後半に分けて見た。

前半。アメリカにいたことがあり合理的思考を持つ栗林中将が島にやってくる。かれはアメリカにいたこともあり、その西洋的な合理的思考が部隊内に衝突を引き起こす。そしてひらひらのブラウスを着て戦地で乗馬をしてしまうバロン西。この西洋規格化した日本人ふたりの存在が、部隊内の日本兵の非合理な思考 (玉砕など) を浮き彫りにして、日本兵がいかに西洋人には理解不能な異なる思考回路で戦いに挑んでいたことが明らかになる。その存在が非現実的で怪しすぎるバロン西ではあるけれども、そういった意味で、フィクションとしてこの思いっきりバタ臭い (死語) 二人を据えた設定はうまくいってると思う。また栗林とバロン西が大きな体格を持ちエレガントな物腰で西洋人に近いのに対し、他の日本兵がいかにもな日本人的外観を持つことにも目がいく。

後半は、前半においての日米の精神の違いを浮き彫りにするトーンから一転して、日本兵も米兵も同じ人間であるという普遍性を強調しはじめる。そのための小道具が家族に宛てた 「手紙」。その手法は申し訳ないけどちょっと平凡すぎの感も。またバロン西が読み上げたアメリカ兵の母親からの手紙の一文 「自分が真実だと思う道を進みなさい (ちょっと詳しくは思い出せないけど、そんなような内容)」 が、あれだけ思考回路が異なるということを見せ付けられた日本兵に実際理解されるのかという疑問も沸く。またバロン西と栗林中将の最期も、この二人があそこまで西洋的だっただけに、日本的思考から導き出される自決がとても不釣合いな気がしてしまった。











この誇張されすぎのバタ臭さは何のため? 映画鑑賞中はバロン西に目が釘付けでした。「はいからさんが通る」 の少尉みたいです。さすがに金髪ではないけど。

2007年2月28日水曜日

L.A.CRASH

「車」 を介した間接的な因果関係

アメリカには一度も行ったことがないのですが、話に聞くところによると、みなさんが車を持っているそうで。一戸建ての家から外へ出るときはいつも必ず車、仕事に行くときはもちろん、買い物に行くときも。なので近所の人と道端でばったり会って立ち話、なんてないそうです、聞いた話によれば。それから、ドイツに住んでると思いもよらないことなのですが、人種ごとの住み分けがずいぶんはっきりしているそうです。
この映画で見る限り、車の中は極プライベートな空間らしい。車の衝突事故、盗難、警察による取調べ、ヒッチハイクなどによって初めて、人々はそのプライベートな空間から一歩外に出て (あるいは他人を中に入れて)、見知らぬ人同士が接触することになる。

2007年2月11日日曜日

建築家の腹

街はベルリン映画祭で盛り上がってるみたいです。このイベント、なんか嫌。参加しようと意気込んでも一般人にはチケットが手に入るのか直前まで分からないし (聞いた話ではジャーナリスト優先で彼らが会場に入った後で残りの席を一般に売るからだそう)、短い期間にみっちりとしたスケジュールで、「見逃した」 感をずいぶんと募らせてくれるからです。それを逆手にとって 「さて、わたしは今現在何を見逃してるのかしら・・・」 とプログラムをめくってみたり。そんなひねくれた楽しみ方しか許してくれないこのベルリナーレと暮れのクリスマス市が、私にとって憎くてしょうがない2大年中行事です。

その映画祭にシンクロさせた企画だと思うのですが、ピーター・グリーナウェイが大学で講演をするというので予習のつもりでDVD を借りてみました。とはいえなんかめんどくさくなってしまって実際の講演会には行きませんでした。ベルリナーレが憎いといいつつ、実は怠惰な自分が憎いのかもしれませんね。
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「建築家の腹」 ピーター・グリーナウェイ

ローマの全体主義的なばかでかい建築物を背景に繰り広げられる人間くさいドラマ (あらすじ)。現代に生きるアメリカ人建築家が主人公。 (歴史の深遠さや異文化に打ちのめされる現代人の姿を描こうとするときに、アメリカ人を主役に据えるのはよく踏襲されるパターンのような気がする。シェルタリング・スカイとか)

- その設計が、現実には何一つ実現されることなく消えていった18世紀の建築家ブーレ。彼の展覧会を企画する現代建築家。そのアイデア故に偉大である過去の建築家と、またそのアイデアのみで構成された展覧会を企画する現代の建築家。この純粋な観念性と、背景に映し出されるローマの堅牢な巨大建築物。 (観念性と物質性)
- 石で出来たローマ歴代の皇帝は時間に耐え、その腹は病理に蝕まれることない。生身の建築家の腹は時間と共に癌に蝕まれていく。観念世界の恒常性と人間の肉体のはかなさの対立。 (精神と肉体)
- その人間である建築家は妻の腹に子を宿し、自分の腹に癌を巣食わせる。子供の誕生と同時に窓から身を投げる男。(男と女、死と誕生)

これら二項対立の思考は徹底した左右対称、一点消失の構図として視覚化される。

2007年2月4日日曜日

映画 「死ぬまでにしたい10のこと」

二つ目の物語レベル

癌で余命幾ばくもないことを宣告された23歳の女主人公が、死ぬ前にしたいことをノートに書き上げそれを実行に移していくストーリー。2人のまだ幼い子供たちが18歳になるまで毎年誕生日にテープに吹き込んだメッセージを受け取るよう工面し、夫と子供のために新しい女性を見つけ、刑務所にいる父親に会いに行き、見知らぬ男性と恋愛をしてみる。映画そのものは彼女の最期を見ることのないまま終わってしまう。

見終わった直後は突然のラストに、あれ、とちょっととまどったけど、一晩寝て起きた後にいい映画だったかもと思った。主人公は自分がこの世から居なくなってしまった後にも続いていくであろう親しい人たちの人生に想いを馳せ、その想定する未来に拠って行動する。主人公の行動を描写するベースとなるストーリーの基盤上に、主人公が思い描く未来が見えない物語層として重ねられている。主人公が死後未来を見ることが出来ないのと同じように、観客もまた主人公に感情移入しながら、決して見ることのない映画終了後の未来に想いを馳せる。物語構造が重層化されていてそれが作品の厚みになっている。原題は 「My life without me」 (私が居ない私の人生)。ちょっとだけポイントずれてる商業用日本語タイトルが私を悲しくする。


「死ぬまでにしたい10のこと」 公式ホームページ

2007年1月22日月曜日

恋愛睡眠のすすめ

Michel Gondry 「THE SCIENCE OF SLEEP」 (2006)
ミシェル・ゴンドリー、サイレンス・オブ・スリープ

なんか観た映画の悪口ばかり書いてる気がしてちょっとだけ罪悪感にかられたので、最近観た中で良かった映画を思い出して引っ張り出してみました。
何がよかったかというと、理想化で恋に恋する夢見がちな主人公の主観的時空間に沿って、映画の時空間が作られていて、それがすごくうまくいってるからです。
タイムマシーンが機能したり、夢と現実がごっちゃになった後で現実世界のギャップに突き当たったり。そんな経験、身に覚えがある気がします。



ホームページ:
http://www.science-of-sleep.de/start.html
ところで、シャーロット・ゲンズブールの脚にはびっくりしました。

ザ・ファウンテン

Darren Aronofsky 「THE FOUNTAIN」 (2006)


π (パイ) のダーレン・アロノフスキー監督の新作を ハッケッシャー・マルクトにある映画館キノ・ツェントラールで観た。主人公の男性は現代に生きる脳医学の研究者で、猿の脳を解剖してて、奥さんは病気でもうすぐ死ぬらしい。そして中世ヨーロッパに生きる同主人公は、奥さんと同じ女優が演じるお姫様の願いで、不老不死の薬を探す旅に出る。そしてもう一つ、未来の大きな木の下に佇む主人公。この3つの異なる時間軸が前後入り乱れながら、物語が進んでいく。現代の奥さんが癌で亡くなって、その奥さんがノートに書いていた物語が過去の中世の騎士物語と繋がり、その物語に登場する主人公が最後に不老不死の木を見つけた時点で、未来に生きる主人公の姿へと繋がる。

ストーリーは単純。愛する妻の死を主人公が時空を超えた心の旅を終えて乗り越える。登場人物達の演技は大げさ。とても悲しいのは分かるんだけどいつも同じトーンで深刻すぎるのはかえって現実味に欠ける感じで、演出の意図に反して観客の方がしらけてしまうような場面も。映像的にはきれいに出来てるところもあるけど、例えば未来の主人公が浮かび上がって座禅のポーズのまま宇宙空間を駆け抜ける場面などは、新興宗教の教育ビデオを見ているようなキッチュさ。これが真面目すぎる演出と相乗効果を生んで、ちょっと正視するのがつらかったりもした。

一番気になったのは、マヤの古代文明、中世ヨーロッパの異端尋問、東洋宗教のヒッピー的解釈 (?) といった、あらゆる神秘主義的事象が全く節操なくミックスされているところ。(そしてそれらの精神世界が収斂するのがここでは現代の脳医学。) こういった、異文化の神秘的なエッセンスだけをリアリティーが欠如した形で困難なく採り入れてしまって、その上でまじめでいられるところが、アメリカなのかな、と考えた (行ったことないけど)。そういう文化人類学的興味で観るならおすすめ。

2007年1月13日土曜日

キム・ギドク 「春夏秋冬そして春」

キム・ギドク監督の韓国映画 「春夏秋冬そして春」 を見た (goo 映画)。ストーリーから読み取れるメッセージはずいぶんひどい。登場人物全員がシリアスすぎて、その生真面目さも純粋すぎると言うか根拠不明で不気味。動物を苛めたからといって罰を受けたり、女性と関係を持つことがさもいけないことであったり、子供を見捨てた母親がすぐ死んでしまったり。ちょっと真面目さに奥行きが無くて、この監督きっと傲慢なひとなんじゃない?と思ってしまう。ごめんなさい。一緒に観たドイツ人は二人とも憤慨。ドイツ男は、仏教僧は飄々としてて面白い人たちというイメージが自分にはあって、でもこの映画ではずいぶんくそ真面目で一直線で 「みんなナチ」と問題発言をしてたし、ドイツ女は、女性という存在自自体が罪といわんばかりの描写に不満だったよう。そういえば同監督の 「サマリア」 (goo 映画) も父権主義的という点で同じくらいひどかった。わたしは主人公の父親を殺したくなりました。 ・・・と憤慨しつつも、この映画を純粋に造形的に、または映画的時空間の構築といった面から見てみたら、なんだ結構悪く無いじゃん、しかも面白いじゃん、となりました。

仮想の境界
この映画では 「ドア」 が象徴的な使われ方をしている。湖上の庵に住む僧達が外界に出るとき、彼らは小船に乗って岸までたどり着き、そこから岸辺に建てられた門をくぐり、外界へと出る。そのドアは聖と俗の二つの世界の境界になる。そして幼年僧と若年僧とがそれぞれ罪を犯すのもこの境界の外。また、湖上の庵の内部にはいくつかの部屋が設定されているが、部屋ごとの仕切りであるべきラインには壁が無くぽつんとドア枠が立っているだけ。「どこでもドア」みたいなドア枠。登場人物達は隣の空間へと移動する際、いちいち律儀にそのドアをくぐる。部屋を仕切る壁は登場人物達のみに存在し、観客には見えない。ある夜、少年僧が眠り込んだ老僧のとなりの床からそっと抜け出し少女の横たわる部屋へと忍び込むとき、彼は一度ドアを通りぬけようとするが、思い直してドアを通らずにその脇から境界を越える。禁じられた行為の暗示。こういう仮想の境界って、仏教寺院に見られる結界に似ている?

聖と俗、二つの世界の対立と、さらなる鳥瞰パースペクティブ
映画冒頭からラストシーンに至るまで、観客には聖と俗、山に囲まれた湖上の世界と外にある世俗界、この二つの世界しか提示されない。主人公の僧は幼年から青年期を経て壮年にいたるまで絶えずこの二つの世界を行き来し、同時に過ちを繰り返す。俗世界は観客には見えない (見ることが出来ないのは映画の中だけ。なぜなら俗世界とは映画を見ている観客の居る世界だから?)。子供を捨てた女性が事故で死んだ後、何を思ったか僧は観音様を背負って山に登る。斜面を這いつくばるように登りながら彼は自分が虐めて殺してしまった動物のことを考える。そして映画のラストシーンは山頂に置かれた観音像とはるか下に見える湖上の庵の風景。それまでの聖と俗の二元的世界に対して、映画の一番最後になって初めて、湖上の世界を上から下へと見下ろす第三の視点が導入される。
映画タイトルが示すように、子供から大人へそしてまた子供へと同じ過ちが繰り返され、季節も春から冬そしてまた春と永遠に繰り返される。そういった時間的反復とはまた別にもう一つ、永遠に反復される空間性をもこの鳥瞰風景は指し示す。僧がこれまで自分が存在した世界を見下ろし、自分自身を自ら虐めた小動物のように感じるように、空間は入れ子状に何重にも重なる。我々が見下ろす小動物の世界が存在し、それ故に我々人間の存在を身下ろすさらに大きな存在がある。

一緒に映画を観たドイツ人2名には、仏教寺院が舞台であるところから自動的に仏教的世界観を映画に期待し、そしてそれが宗教であるという理由だけでキリスト教のシンボル的なイメージの取り扱い方をあてはめようとしてしまうみたい?百合の花 = 純潔、みたいな。そういう辞書を引いて意味を解読するのとは違うイメージ解釈の方法があること、それがこの映画を観て考えたこと。

2007年1月11日木曜日

キシェロフスキの 「赤」

クシシュトフ・キェシロフスキ監督の 「トリコロール 赤の愛」 (あらすじ) に登場するメディア、コミュニケーションの媒体について。

電話
・ 主人公とその恋人
・ 主人公とその家族
・ 法学生とその恋人
・ 天気予報サービスを利用する人々
・ 内密にゲイの恋人と電話をする父親とその会話を隠れて聞く娘、ヘロイン密売に日本製の電話を使う男

マスメディア
・ 船の事故についての新聞記事、テレビ報道。
・ 「モデル」 というヒロインの職業。写真や街頭ポスターなど、メディアの中に存在する
・ ラジオ (ヒロインが犬を過って轢く直前に混線し、ハプニングを予感させる)

退官判事は 「神」 のメタファー?
・ ヒロイン以外の人物との直接のコミュニケーションは無い。(ヒロインもまた老人以外の人物と直接触れ合うことはない)
・ ヒロインとの出会いはまた、犬という媒介を通して起きる。
・ 判事という職業 = 裁く者
・ 人のプライベートを盗み聴くという行為。
・ 他の人物とのコンタクトは媒介を通してのみ: 老人の自宅の窓に投げ込まれる石 (他者の悪意)

そしてコミュニケーションの不成立
・ ミュージックショップで登場人物達がお互いを知ることなく隣り合わせにヘッドフォンで音楽を視聴するシーン。それぞれの頭に響くそれぞれの音楽。 (個人的に好きなシーン)
・ ボーリング: プレーヤーが直接対峙するのではなく、個々がレーンに立ち成立するゲーム。
・ イギリスに居る恋人の不理解
・ 恋人の裏切りを最後まで理解できない若者

そして映画の最後に、難破した船から救出される3部作 (青・白・赤) における主要登場人物7人。この荒唐無稽な演出も、「登場人物が助かった」 のではなく、「助かった人々を物語の中心に据えた」 と考えてみると、そこで物語の因果的構築がひっくり返され、より大きなまなざしで3部作を見つめることになる。

2007年1月9日火曜日

勅使河原宏 「砂の女」

立て続けに日本映画に凝ってしまいました。へび君はそろそろハリウッド映画がみたいと。今回はちょっときつかった。砂の女さんの顔におびえ、しかもあらすじが最初からわかってしまいました。ごめんなさい。

映画INFO: 砂の女(1964) - goo 映画

2007年1月8日月曜日

今村昌平 「復讐するは我にあり」

をみた。最初から最後まで主人公の犯罪の動機が知りたくて観続けるのに、結局説明はなし。そこがすごくえらい。唯一動機の説明になりそうなのが、敬虔なカトリック信者であった父親との関係の描写。でもそれもなんか微妙。

リンク: 復讐するは我にあり(1979) - goo 映画