映画的フィクションと現実との境
サム・ペキンパー監督の映画 「オスターマンの週末」 (日本語タイトル/ バイオレント・サタデー) を見た。 (あらすじはここ)
まず最初の、CIA部員の妻が殺害されるシーン。
画像の質がテレビモニターのように粗い。なぜならその映像は、映画内の人物が見ているビデオなんだけれど、観客には初め、知らされていない。フィクションの中のフィクション? ストーリー内でも、この出来事が事実なのかあやふやのままにされている。
よく出てきて気になるのが、たった今までモニターを通して別の場所から観察していた人物が、観察されている人物の背後からふいに登場するシーン。私はビデオで鑑賞したんだけれども、そのシーンの度に、私の背後からもジョン・ハートが登場するんじゃないかという気を起こさせた。映画を見る観客自身までもが映画に取り込まれていく。
見る側と見られる側が逆転する瞬間もあった。人々をモニターを通して観察し続ける CIA 部員が、危機に応変して突然ニュースを読み上げる場面。人々はニュースに聞き入る。
後半はがっかり。なぜなら、監督は映画の虚構性そのものと対峙してると思いきや、いつの間にやら社会的メッセージ (メディア批判?) らしきものにすりかえられてしまうから。そういう意味で最後の、テレビのトリックはなかなかがくっとさせる。「わらの犬」 の終わり方が好きだっただけに・・・。
あらすじは?(はてな) なかんじで、よく意味がわからなかったりするんだけど、映画内のフィクションが、映画を見る我々の世界と交差する体験ができて、それは劇映画の強みだと思った。これは、アート的な作品ではなかなか出来ないのでは?
映画的フィクションを限界まで解体、追求した点で、必見。
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