2010年5月27日木曜日
野外アート in ポツダム広場
地図と案内はこちらを。
その中でも、ビルのてっぺんに立つアウク・ド・ヴリース (Auke de Vries) のオブジェが印象的。
これらもすべてダイムラー社のアート・コレクションに含まれるものです。
ダイムラー・コンテンポラリー
ポツダム広場を通るたびにおもしろいなー、と思うのは、ここが「大都市」を模倣しているから。
ニューヨーク、ロンドン、東京などの大都市では、乱立するビルや錯綜する路地といった都市としての魅力が100年以上かけて生成されたのに対し、ここでは建築家たちの計算されつくした計画によってわずか数年で作り出されてしまった、と考えるのです。
計算しつくされた感のあるビルが重なり合う細部を目にすると、その思いを強くします。
高層ビルに囲まれつつ、それでもやけに風通しが良くて、その空虚さがベルリンらしい不思議な感じなのですが。
というわけで、今日はダイムラーコンテンポラリーで開催されている「60年代ドイツのミニマリズム」展へ。
周りのポストモダン建築群に圧倒されてひっそりたたずんでいるのはハウス・フート (Haus Huth) と呼ばれるかつてのワイン商の家。 この4階がダイムラー・コンテンポラリーです。ベルを鳴らすとドアを開けてくれます。
下の写真:空き地時代のポツダム広場にぽつんと立つハウス・フート。
とても重厚な内装がかつての栄華を忍ばせます。エレベーターで4階へ。
ダイムラー・コンテンポラリー内。換気管のような形体はシャルロッテ・ポゼネンスケ (Charlotte Posenenske) の作品。前回のドクメンタ12 (2007年) で国際的脚光を浴びた今は亡き作家です。
ダイムラーとは、言わずと知れた自動車メルセデス・ベンツの会社です。企業の文化事業の一環としてアートのコレクションに力を注いでいます。1977年から始まった収集は「20世紀の抽象美術」に重点を置くというのがうたい文句です。
第二次大戦後のドイツでは、ナチス支配下で国家の理想を描いた具象芸術が奨励され前衛芸術が退廃の烙印を押され弾圧されたことへの強い反省から、ナチス政権以前の芸術の動き、つまり1910年代〜20年代にみられた抽象芸術へと回帰していきます。また同時に、戦後ドイツが文化的・政治的にアメリカの強い影響下にあったことも、ドイツ抽象芸術が特にアメリカ美術を手本として発展したことの原因となります。
とはいえ、こういったことはすべて西側の話。今回の展覧会においても題目が「ドイツの」ミニマリズム (Minimalism Germany 1960s) であるのに、旧東ドイツでがすっかり抜け落ちてしまっているのは、そういったことに非常に敏感なこの国では、注意不足以上のものがあるといえるでしょう。
誤解を恐れずに言うならば、「20世紀抽象美術」を収集するという行為が、実は旧西側の旧イデオロギーをその根に持っているといえるのです。冷戦が終結し、対立しあうことで存在意義を保っていたイデオロギーが消滅した現在、これと同じことを公共の美術館がやったら大変なことになるでしょう。未来を拓くはずの芸術が懐古主義に陥っているのです。たとえ過去の作品や流派を展示するとしても、歴史理解にこそ未来へのまなざしが大きく関係してくるはずです。
でもそこが、ダイムラー。
下の写真、床に設置された黒い物体が、イミ・クネーベルのかつての同志、イミ・ギーゼ (Imi Giese) の作品。クネーベルと共にイミと名乗り、共にヨーゼフ・ボイスを師としました。1974年に自殺。彼の作品は初めて目にしましたがとても美しいです。特に写真作品のなんとも言い表せない繊細さにびっくりしました(壁に掛かっている黒い正方形です)。
作品は、いいものが揃っています。さすが、ダイムラー。
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ダイムラー・コンテンポラリー (Daimler Contemporary)
住所:Alte Potsdamer Straße 7, 10785 Berlin
開館時間:11時〜18時、入場無料
公式サイト
野外アート・マップ
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2008年6月7日土曜日
ホモセクシャル犠牲者のための追悼碑
ユダヤ人のコンクリート石塊が多勢なのに対して、こちらはひとりぽつんと孤立。素材、形体、大きさが 「ユダヤ・・・」 と同じなだけに、犠牲者はユダヤ人だけでない、その影に隠れているホモセクシャルな人達の存在も忘れないで!というメッセージが読み取れます。そういった、ユダヤ人がさも自分達だけが犠牲者であったかの様な自己アピールに反発する文脈から発生したプロジェクトだけに、ホモセクシャルな男性だけではなく、ホモセクシャルな女性 (レズビアン) のための記念碑も作るべきだとの論争が起きたり、また虐殺されたドイツ系ジプシーのための 「シンティ・ロマ人犠牲者追悼碑」 もユダヤ犠牲者記念館の近くに計画されてるそう。
ところで、この 「ホモセクシャル犠牲者追悼碑」 には窓が開いていて、中には白黒の映像が映写されています。キスをする二人の男性。
オブジェ自体は60年代ミニマルで、エンドレスな Kiss はウォーホル。ベルリンには、様々なイデオロギーによる慰霊碑・記念碑がたくさんありますが、美術史から援用した造形言語を使いながらも、かなり分かりやすいメッセージを持つのがとても気になります。
2008年1月18日金曜日
採光と瞑想効果
ベルリン一の目抜き通りウンター・デン・リンデンにあるノイエ・ヴァッヘ (Neue Wache: 新衛兵所)。もともとはその名の通りプロイセンの衛兵所でしたが、現在は度重なる戦争の犠牲者のための慰霊碑として機能し、多くの観光客が立ち寄ります。
成り立ちについて簡単に説明を。
この建物はもともと、1816年にプロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム3世が、建築家カール・フリードリッヒ・シンケルに衛兵所として設計させたものでした。
ドーリア式の柱から成るの柱廊玄関をもつこの建物は、パルテノン神殿などの古代ギリシャ建築に範をとる「古典主義」という様式に属します。
シンケルは設計の際に、建築物が他の一切の形体や人物をも想起させず、そのかわりに抽象的な観念のみを想起させることを意図しました。それはこの「古典主義」という普遍的な建築様式が、過去に対する「感覚」のみを人に呼び起こすことを意味しています。
設計当時、シンケルは決して、建物が戦争の犠牲者のための慰霊碑として使用されるとは考えていませんでした。ただ彼の「抽象的感覚のみを想起させる」建築といった、用途に合わせて外観を明確に規定することをしないコンセプトの曖昧さが、後世における慰霊碑への用途変更を簡単にしてしまったのかもしれません。
1918年にドイツ帝国が崩壊、ワイマール共和国が成立した後、1931年に建築家ハインリッヒ・テッセノウ (Heinrich Tessenow) はプロイセン州政府から、この建物を第一次大戦の戦没者慰霊の場に改造するよう依頼されました。彼は内部を仕切る壁を取り去り、全体に屋根をかぶせ、その屋根の中央には円形の開口部を設けてそこから光が降り注ぐように設計しました。
この改築以降常に、この本来の「衛兵所」は、訪問者に瞑想を促す目的の追悼の場として機能し続けています。
第二次大戦後の東独時代には「ファシズムと軍国主義に犠牲者のための追悼所」とされました。
ドイツ再統一後の1993年以来、この建物はドイツ連邦政府の中央追悼施設として「国民哀悼の日」の式典会場になっています。
現在、中にはケーテ・コルヴィッツのピエタ像が設置されています。
こちらがパンテオンの外観ですが、のちに改装された内部の天窓だけでなく、ギリシャ建築風のフリーズや円柱までも、シンケルのノイエ・ヴァッへの外観と完全にクロスしています。外観はシンケルのオリジナルのままで、全く手を加えていないにも関わらず、一部分の変更のみで、プロイセン特有の新古典様式の衛兵所が、別のコンテクストに取り込まれていってしまうことが面白いと、私は思うのですが、どうでしょうか。
ところで、話はずれますが、穴を開けられた天蓋の手法は、現代においてもアートの言語として使われることが多く見られますが、そういった場合、瞑想あるいは内省をうながす効果をねらうことが定石のようです。
2007年8月26日日曜日
ナチスが大聖堂でしたこと。
ハインリヒ3世(獅子公と呼ばれる)により1173年に建設されたこの聖堂は第三帝国時代、ナチスの国策を支持するプロパガンダに利用されていました。

1147年に行われたスラブ民族を駆逐するための十字軍遠征を根拠に、ハインリッヒ3世はナチスによってナチス政治思想の先駆と見なされました(人種/民族主義者という点と、ヨーロッパ東部開拓者という点において)。
ナ チスが政権を握っていた1935年から1940年にかけて、ハインリッヒ3世が建立した中世当時の状態に戻すために、何世紀にも渡って集められた宗教的な 所蔵品(十字架や19世紀の絵画など)は悉く撤去され、大聖堂は最初の民族主義者・東方開拓者としてのハインリッヒ3世、並びにナチスを祭るといった特定の信仰の場へと作り替えられました。
聖堂の中央回廊にはハインリッヒ獅子王の 「東方征服」 を主題とする壁画が施され、ハインリッヒ3世がヒットラーの精神的な祖先と見做され、祭られていることは誰の目にも明白でした。
下は第三帝国時代の5マルク紙幣。表面にはハインリッヒ3世 、裏面にはブラウンシュヴァイク大聖堂が印刷されています。
戦後、聖堂はナチス以前の形に戻され再びプロテスタント教会として機能し始め、ナチスの痕跡は払拭、歴史は「リセット」されました。現在、中央廊の壁面が真っ白なのはそのためです。
もともとハインリッヒ獅子王が中世に建立したときも、自身の権力を市民に見せ付ける意味が強かったそうですが・・・
この大聖堂の例は、教会のような宗教的な場といえども政治との関わりからは決して逃れられないことを示してます。
それとも、宗教もある時代の政治的権力の一形態なのでしょうか。
参考: Wikipedia/ Braunschweiger Dom
大聖堂の側廊
ブラウンシュヴァイクの旧市街には教会がたくさんあります。その中のひとつブラウンシュヴァイク大聖堂に入ってみました。
写真は北側の回廊。この側廊は1466年から1474年の間に増築された部分だそう (教会の起工は1173年)。ねじれたように造形された柱に目を惹かれました。よくみると、柱と天井の造形それぞれが、ひとつひとつ違っています。
先日プラハに行ってきまして、プラハ城内の聖ヴィート大聖堂を見てきました。そこでもそうだったのですが、通常教会は正面のアプシスから着工され長い年月をかけて後方へと教会は建てられていきます。
そのため奥から手前に向かって、様式に変化が見られます。
これが一番奥の、一番古いもの。
そしてこれが一番後方の、年代的に一番新しいもの。この間は8年間。そんなに長い期間ではないですが、造形がかなり複雑緻密になっています。上図は柱に筒状のひもが巻きついたような造形ですが、下図は柱自体がひねられてるように見えます。
この柱の変化に、どういった時代性が読めるのか考えました。 複雑になっていくことが、発展と同義語であった時代だったのでしょうか? または、当時の幾何学の発展とも関連してるのかもしれません。
それともこれの様式の変化は意図的なのかもしれませんが・・・? そうだとしたらなぜ?
消費城
人口約25万人。ドイツでは中都市になります。東西分裂時代には西ドイツの東のはずれに位置しそれが未だ残る僻地臭さの要因でもあり、また他方ではフォルクスワーゲン城下町のひとつでもあり僻地のくせに金銭的には妙に潤ってる側面もあります。
かつては住んだこともあるBraunschweig。久しぶりに訪れてみたら街中にはすごいものが次々と登場していました。城の顔をしたショッピングモールと、キリスト教徒受難の歴史を表現した碑を紹介したいと思います。
シュロス・アルカーデン (Schloss Arkaden) 2007年
もともとは18世紀に建てられた大公のための居城。
第二次世界大戦で大部分を破損していた建物は市議会の決定により1960年に完全撤去。跡地には公園が造られました。その公園も2005年再度完全撤去。そして2007年、再び旧城ファサードが甦りました。オリジナルに忠実に復元。部分的に黒いのは現在残る純正部品。そう思うと真正さがさらに増します。
外から見るとものものしい雰囲気。美術館か何かと思ってしまいますが、中に一歩入るとそこは別世界。
恐るべしや。現代社会を代表すべき消費の牙城。 見事に表面のみがぺらっと歴史的建造物、中身は巨大ショッピングモール。
世界最大のパズルといわれたドレスデンのフラウエン教会再建。ベルリンの旧東独文化宮殿取り壊しとベルリン市城の再建。ドイツは古い建物の再建ブームです。再建の度に多かれ少なかれ賛否両論の論争が起きますが、こんな大胆な例はかつてありませんでした。
公園の撤去と町の経済構造を壊すような計画に反対してここブラウンシュヴァイクでも市民運動が起きたようですが、戦後に城の廃墟が取り除かれる際にも美術史家の反対運動があったそうです。戦後の気分としては市民は廃墟なんて見たくなかったのかもしれません。一体残したらいいのか撤去したらいいのか、もう何がいいのか良く分かりません。ドイツは未だ戦争の後遺症に苦しんでるとしかいえません。
城内ショップ情報はこちら --> Schloss Arkaden Braunschweig
キリスト教碑 (Christentum-Säule) 2005年年末にはクリスマスマーケットが立つ場所。そこにはこんなものが。キリスト教の歴史を構成した柱だそうです。
一番下にはキリスト誕生、そこから中世のキリスト教徒迫害から第二次世界大戦の聖職者迫害などなど、現代のクライマックスまで上に行くにしたがって時間が下っていきます。
そして頂上には
なんと黒煙を上げる世界貿易センター。キリスト教を頂点として(!) ユダヤ教、イスラム教の世界3大宗教のシンボルと共に deus caritas est (神は愛) という教皇ベネディクト16世の言葉が。
キリスト教文化中心の世界図に疑問を提示した事件さえもを自身の受難の歴史に取り込んでしまう大胆な行為。
もしベルリンだったら大変な論争になってしまうようなことが簡単に許されてしまう無垢な町 Braunschweig。
(関係ないかもしれないけど標準ドイツ語 Hochdeutschを話します。)
個人的には楽しい思い出が多いですが。
2007年5月21日月曜日
政治権力と造形
この建物自体は、軍事国家プロイセンからナチス・ドイツの時代を経て主に軍事・政治目的に使用されてきました。ナチスの支配する40年代にはこの壁画と同じ場所に、兵士達とナチスの鷲の紋章のレリーフが架けられていました。
戦後、その建物は東独の政権政党であるドイツ社会主義統一党 (SED) の拠点となり、ナチスのレリーフは取り外され、マックス・リンガーによるタイル製の壁画が掛けられることになります。
タイトルは 「ドイツ民主主義共和国の建設」 1952年。兵士の像とはうって変わって、いろんな職業の平民がいかにも幸せそうに集っています。とてもカラフル。
近づいてよく見てみると、タイルにひとつひとつ絵付けして焼成してから、大きな絵に組み合わせたようです。ドレスデンのマイセン磁器のタイルで出来た王侯貴族の壁画なんかを想わせます。
人物は等身大よりもずいぶんと大きく描かれています。
特定の支配者ではなく、老若男女いろんな職業の無名の人々が主役となってひとつの理想社会を形成します。
頭をよぎるのは第二次世界大戦中、全く同じ場所に掛けられていたという兵士の群像レリーフ。戦後ナチスドイツの否定と共にそのレリーフは取り外され、そこには新生社会主義国家の主役達、労働者の群像が描かれることになる。この不特定の無名の人民達が、ナチスドイツがかつて掲げた主役達、無名の兵士達の群像と、どうしても重なり合ってしまう。
この建物が位置するのは、ナチスドイツの政治・プロパガンダの中心地。また建物自体も、時代の変遷や数多くの建て直しにも関わらす基本的な構造や外見には大きな変化はなく、政治的・軍事的機能はその建立以来保たれている。その建物を同じような政治的目的で、引き続き使ってゆくのは、その建物に元来から付随している権力の構造をもそのまま引き継ぐことにも繋がるのではないのでしょうか?
また、絵付けタイルの使用といった伝統的、手工芸的技法の応用も、権威主義的な臭いをふりまく、と感じるのは私だけでしょうか?
ナチスドイツが滅び、その地には新たな社会主義国家が生まれたけれど、結局のところは前面に掲げられた主役達を取り替えただけで基本にある権力構造は何も変わっていなかったのではないのでしょうか?この二つの壁面作品が私達に示すのと全く同じように。

2007年2月25日日曜日
もうすぐ春
オストクロイツ駅近くのある曲がり角にて。
旧東ドイツの公共オブジェはこんなほのぼのとした庶民派ものが多いです。メルヘンのモチーフなんかがよく見られるのは、労働者が主権を持つ国家では政治的支配者の像なんかは立てまいという社会主義の考え方が、多かれ少なかれ影響してるらしいです。でもその同じ思考回路から、城とか教会などの歴史的建造物が壊されてしまったりもしたらしい。ベルリン大聖堂の前に建っていた城とかライプチヒのパウリーナー教会とか。
ベルリン市城は戦後の社会主義ドイツにおいて、プロイセンの絶対政治を象徴するからと非難され取り壊され、その跡地には「文化宮殿」 と呼ばれる市民のための文化複合施設が建てられた。その旧東独の文化宮殿はドイツ統一後またもや取り壊され、現在はまたかつての城をそこに再建しようと一部の人々が資金を集めたりしてがんばってるらしい。でもその文化宮殿を取り壊す考えと、かつてベルリン城を取り壊した考えの根っこは全く同じでは、という疑問もわく。しかもそこにまた昔の城を建てるとは。
ライプチヒ大学の正面、レーニン・マルクスのレリーフの掛かる壁面にはそのレリーフを覆うように赤い三角形の鉄枠が架けられている。その形状は、かつてそこに建っていたパウリーナー教会の屋根のかたちを模す。パウリーナー教会はもともとライプチヒ大学付属の教会だったが、マルクス主義の考え方から学問 (科学) と宗教とが一体となっていることが批判され、取り壊されたのだそう。ここも再建運動が起きてるらしい。ついこの間までの過去をとことん否定してもみ消そうとやっきになり、それよりさらに遡った過去にここまでこだわるのって、ちょっと考えが逆転してるようでこわい気が・・・。でもどうなんでしょう。古い町並みを歩くのは (それが作り物とわかってても) やっぱり落ち着きますし、東ドイツのプラッテンバウはキッチュとして大目にみてもやっぱり醜いことが多いですし。
2007年2月5日月曜日
2007年2月1日木曜日
ユダヤ人犠牲者のための追悼碑

1月23日付けのフランクフルター・アルゲマイネ新聞。「史実は芸術よりも心を揺さぶる」というタイトルで、ベルリンの中心部に建つホロコースト追悼碑を訪れた小中学生たちへのアンケート調査の結果を報告している。この2005年5月から開設された「ヨーロッパ・ユダヤ人犠牲者慰霊館」は地上のホロコースト追悼碑と地下に設置された資料館その2つの施設から成り立っている。子供たちの回答にはどちらかというと資料館でのホロコーストの歴史に関する展覧会に心を動かされたという意見が目立ち、追悼碑そのものからはなかなかその趣旨を汲み取れていないという傾向が見られる、というのが記事の伝える内容。
この見渡す限りの灰色の瓦礫群はまるで旧約聖書の中の風景のようでもあり、或いは直立し地中に埋没する形体はアイデンティティーを奪われ抹殺されていった被害者達を象徴してるようでもあり、視覚的には読み取り方が開かれていながらもそれが限定された主題(ホロコースト)と知的に重なり合っていて、私がこの追悼碑を初めてみたときには割と感銘を受けたのを覚えている。追悼碑といえば通常は、英雄や犠牲者などの人物をかたどったブロンズ像が立っていたり物語を説明するレリーフが掛かっていたりしてそこがどういった場所であるのか読み取ることが出来る。あるいは瞑想のための祭壇を設置するなど宗教建築から借用した形式を取り入れることによって、訪問者は自分がどういった振る舞いをすればよいのか自ずと分かるような仕掛けがされている。そういった意味でこのホロコーストによる犠牲者追悼碑のもつ開かれた抽象的な性格、つまり造形のシンプルさが作品の自由な解釈を個々に委ねる点と、場内で各自が自由に行動できる開放性といった点は、表現における自立した強靭さであるが、同時にまた弱みでもある。その弱みの部分がこの記事では子供の目を通しながら取り上げられている。

確かに実際ここを訪れてみると、コンクリートの柱から他の柱にぴょんぴょん飛び乗って遊ぶ子供がいたり、大人でも柱の間をさまざまに巡ってみたりしてやはり「楽しい遊び場」 という気持ちの方が強い。それに立地。ブランデンブルク門とポツダム広場の間そして追悼碑の向こうには連邦議会が見渡せるという、人寄せが容易で政治的効果も大?といった以外に必然性を見出せないロケーションは自ずとエンターテイメント性を増してる気がする。しかも車通りが多くてその騒音で深刻に瞑想する気分でもないし。また記事によると予算不足で(ベルリンではよくあるパターン)最初の計画よりだいぶ縮小されてしまったのだそう。これが当初の計画通りの大きさで、見る人を威圧するようなものだったらまた話は違っていたのかもしれない。
こういった実際的な問題は置いておいて今回言いたいポイントは、言葉から得る情報と視覚から得る情報の質的な違い。この追悼碑では地上と地下 (地上にそびえたつコンクリート柱と地下の資料館) にその二つの役割がちょうど二分されて与えられている。子供たちは資料館の展示から得た知識に多くの感銘を受け、コンクリートの柱には意義を見出せなかったとアンケート結果は指し示したそうだけれど、この追悼碑のように抽象性が高く純粋にビジュアル的なものって、そこから感受したものを言葉に変換して他人に伝えることは可能なんだろうか? 言葉が指し示す内容は100%確実に他人に伝達されるけれど、視覚芸術にもそれが出来るの? 言葉のようには具体的な事物を指し示すことの出来ず、解釈が自由な (ように見える) 抽象芸術は、人と人とを繋ぐ共通言語であり得るのだろうか? この追悼碑の目的を全く知らない人がこれを見たとき、その人々の間には共通の理解が生じてるのだろうか?
柱の間に隠された地下の資料館へ通じる入り口

参考記事:Christian Saehrendt: Information beeindruckt mehr als Kunst. Eine Umfrage unter Schülern nach deren Besuch des Holocaustmahnmals. In: Frankfurter Allgemeine Zeitung, FAZ, Frankfurt am Main 23. Januar 2007 リンク






