2007年2月28日水曜日
L.A.CRASH
アメリカには一度も行ったことがないのですが、話に聞くところによると、みなさんが車を持っているそうで。一戸建ての家から外へ出るときはいつも必ず車、仕事に行くときはもちろん、買い物に行くときも。なので近所の人と道端でばったり会って立ち話、なんてないそうです、聞いた話によれば。それから、ドイツに住んでると思いもよらないことなのですが、人種ごとの住み分けがずいぶんはっきりしているそうです。
この映画で見る限り、車の中は極プライベートな空間らしい。車の衝突事故、盗難、警察による取調べ、ヒッチハイクなどによって初めて、人々はそのプライベートな空間から一歩外に出て (あるいは他人を中に入れて)、見知らぬ人同士が接触することになる。
2007年2月26日月曜日
セックスワーク/ 芸術 神話 現実
クロイツベルクにある NGBK (Neue Gesellschaft für Bildende Kunst) という非営利のギャラリー主催の展覧会。ここは普段から社会学的アプローチに偏ったコンセプチャルな企画展が多いんだけれど、今回もタイトルは 「セックスワーク」。「性を売る」 こと、またはもう一歩踏み込んで 「性」 そのものを、社会的問題あるいは個人の内的問題として扱っている美術作品から構成されている。問題点への切り込み方が実にさまざまな中で、目に留まった作品をピックアップ。
「ワーキング・ユニット Z01」 Tadej Pogačar, Anja Planišček
これはあらゆる場所に仮設できる売春のための簡易施設なんだそう。性的欲望は押さえつけずに合法に解放させた方が得策であるとし、社会において売春が安易に肯定されていることをアイロニカルに指摘する。
「メモリアル」 クリスティアーノ・ベルティ Christiano Berti
合計18枚の写真シリーズ。1993年から2002年の間にイタリア、トリノ郊外で計19人の売春婦が就労中に殺害された。過去に惨事の起こった現場を探し出し、その風景を記録する。写真が撮影されたのは2001年から2002年にかけて。展覧会場ではジェンダーの学者が記事を書いた読み物が配布されていてそれによると、売春婦を求める男性客は何かしらの社会的なプレッシャーを受けていて、そのプレッシャーを買春を通して解放したいんだそうな。例えば男として認められたい、とか。そういったプレッシャーをエロスとして昇華できなかった場合に、その暴力が誤った方向へと走る危険が伴うのだそう。悲惨な出来事にも関わらずベルティの風景写真にはある種の距離感が漂う。気に留めることなく通り過ぎてしまう空虚な風景はまるで、そんな狂気に走る瞬間の理性の及ばない心のふとした間を見ているよう。
セックスやSMプレイを通した自己認識、自己実現をポジティブに表現している作品がいくつかあった。 (下の写真のビデオ作品の作者は誰だかわからなくなってしまいました。ラテックスのスーツの女性が作家らしい。) ばりばりのコンセプチャルな作品に囲まれて、ブブ・ド・ラ・マドレーヌさん BuBu de la Madeleine のビデオ 「売女日記/ お客と一緒に撮るポルノ 」 の詩的、私小説的な映像作品は目をひいた。
ところでビルギット・ハイン Birgit Hein の16ミリ映画 「Baby I will make you sweet」 をまた発見。個人的に好き。女主人公がジャマイカに旅行し、そこで知り合った黒人の若者との情事をあけっぴろげに記録。最初の車窓からのドイツの雪景色からジャマイカの熱帯林へと替わるところが好き。それと映像が荒れててきれい。あとこの人が好き。
「神のうつわ」 クララ・S・ループリッヒ Clara S. Rueprich
暗室内に向かい合わせに映写される二つの室内風景。教会と売春宿。修道女と売春婦の独白が同時に聞こえる。キリスト教ではイエスを産んだ聖母マリアは「神のうつわ」 とみなされることから、作家は修道女と売春婦に同じ質問をする ― 神、お金、肉体、社会との関係。精神的な存在である修道女と肉体派の売春婦。 「私の魂は肉体の形をとってしか他者に伝達することができません」 この修道女の言葉は、修道女と売春婦、社会において両極に位置する女性の役割が、実は非常に類似することにも気づかせる。一つの社会の中に作り上げられる2種類の女性像。それは、ひとりの女性の中に存在する聖性と俗性でもあり得るし、ひとりの人間の中に存在する精神性 (修道女) と肉体性 (娼婦) でもある。お互いはお互い無しでは成り立たない。精神は肉体に宿り、肉体は精神を内包する。
ドラッグ中毒の女性と一人のおかま。エヴァ・マリア・オッカーバウアー Eva Maria Ocherbauer の壁面作品。
「家」 ガブリエレ・ホルンダシュ Gabriele Horndasch
スライドに手作業で刻まれた単語。 Steckdose (コンセントの差込み口) Sumpfblüte (沼地に咲く花) Stundenbraut (時間制花嫁) Täubchen (小鳩ちゃん) Tempeldienerin (寺の侍女)、などなど娼婦、売春婦の類語は600にも及ぶ。そのような言葉の置き換えは、肉体行為そのものの生々しさを覆い隠し、性を商品としてみることを促しているんだそう。
それにしても、作品を鑑賞するというよりは、読み取りに忙しかったです。面白いんだけど。ところで、こういうNGBKがよくやるような、社会の姿を新たな視点から改めて認識させようとする行為を芸術の使命とする考え方って、カール・マルクスの芸術論とは関係あるのでしょうか?この疑問はもうちょっと私の中で暖めておく。
展覧会: SEXWORK. KUNST MYTHOS REALITÄT
会場はベルリン各地計3箇所
SEXWORK 1: Neue Gesellschaft für Bildende Künste e.V.
SEXWORK 2: HAUS am KLEISTPARK
SEXWORK 3: Kunstraum Kreuzberg/ Bethanien
3つの展覧会場にはそれぞれこんな勉強部屋が設置されていました。資料を閲覧できます。
2007年2月25日日曜日
もうすぐ春
オストクロイツ駅近くのある曲がり角にて。
旧東ドイツの公共オブジェはこんなほのぼのとした庶民派ものが多いです。メルヘンのモチーフなんかがよく見られるのは、労働者が主権を持つ国家では政治的支配者の像なんかは立てまいという社会主義の考え方が、多かれ少なかれ影響してるらしいです。でもその同じ思考回路から、城とか教会などの歴史的建造物が壊されてしまったりもしたらしい。ベルリン大聖堂の前に建っていた城とかライプチヒのパウリーナー教会とか。
ベルリン市城は戦後の社会主義ドイツにおいて、プロイセンの絶対政治を象徴するからと非難され取り壊され、その跡地には「文化宮殿」 と呼ばれる市民のための文化複合施設が建てられた。その旧東独の文化宮殿はドイツ統一後またもや取り壊され、現在はまたかつての城をそこに再建しようと一部の人々が資金を集めたりしてがんばってるらしい。でもその文化宮殿を取り壊す考えと、かつてベルリン城を取り壊した考えの根っこは全く同じでは、という疑問もわく。しかもそこにまた昔の城を建てるとは。
ライプチヒ大学の正面、レーニン・マルクスのレリーフの掛かる壁面にはそのレリーフを覆うように赤い三角形の鉄枠が架けられている。その形状は、かつてそこに建っていたパウリーナー教会の屋根のかたちを模す。パウリーナー教会はもともとライプチヒ大学付属の教会だったが、マルクス主義の考え方から学問 (科学) と宗教とが一体となっていることが批判され、取り壊されたのだそう。ここも再建運動が起きてるらしい。ついこの間までの過去をとことん否定してもみ消そうとやっきになり、それよりさらに遡った過去にここまでこだわるのって、ちょっと考えが逆転してるようでこわい気が・・・。でもどうなんでしょう。古い町並みを歩くのは (それが作り物とわかってても) やっぱり落ち着きますし、東ドイツのプラッテンバウはキッチュとして大目にみてもやっぱり醜いことが多いですし。
2007年2月23日金曜日
ニュートン- ラシャペル- ナクトウェイ (+ ドゥパルドン)
ベルリンZOO駅の裏側のヘルムート・ニュートン写真美術館に行ってきました。
一階の展示場には、ニュートンの所持品、服、部屋の再現、撮影風景の記録ビデオ、展覧会のポスターなどが展示されている。遊び心あふれる人となりを思わせる遺品たち。壁に張り巡らされた展覧会ポスター群には、広告という目的から来るのかかなりいいところをついた作品が選択されていて、それはまた私たちが思い描くニュートン写真のイメージを強固にしていく。それらの写真の醸し出す気高いエロスにびっくり。モデルの表情やポーズ、小道具との組み合わせから生み出されるエロス。それを彼の人となりを示す展示と合わせて見ると、そのエロスは彼のユーモアの感覚を異化させたものなのか、とも思わせる。
ニュートン- ラシャペル- ナクトウェイ
赤絨毯の階段を上った二階の展示場には、ニュートンの映画俳優、ポップスター、政治家などの男性ポートレートと並んで、商業写真家デビッド・ラシャペル(David LaChapelle)、戦場写真家ジェームズ・ナクトウェイ (James Nachtwey) という全く異なるフォトグラファー二人の作品が展示されている。この繋がりがありそうで無さそうな不思議な3人展のタイトルが 「MEN, WAR & PEACE」 男と戦争と平和。

実は私がこの展覧会を訪れた理由は、ラシャペルのハリケーン通過後の破壊された家の前で子供を抱いて立つモデルの写真。でも展示には正直いってがっかり。そのハリケーン写真以外の数点を除いてほぼ全部ダメ。まずプリントがインクジェットのクウォリティーそのもので、またその質の悪さを逆手にとってものにするところまでも行ってないような。展覧会することになったので慌てて拡大、プリントアウトして額に入れて美術館に飾りました! といった即席な救いのなさが漂う。ファッション雑誌というメディアが彼には一番合ってるのではないでしょうか。悪口では全くなくて。

もうひとりの写真家ナクトウェイは 「戦場フォトグラファー」 なんだそう。すごい肩書き。劇的な一瞬を、完璧な構図とコントラストで捉えてる。ものすごくプロフェッショナル。でもなんか不思議。悲嘆にくれる女たちや、死の影に不安を覚える戦場の少年 (実際の人影でシンボリックに表現されてる) など、どこまでが写真家が主観的に 「切り取った」 フィクションでどこからがありのままの現実なのか、考えれば考えるほどわからなくなる。作家の意図とはまた別に、観る者の投影も入り込んでくるし。ここで頭を抱え込んでいる少年は絶望しているように我々の眼に映る。でも実際に絶望しているのかはわからない。背中がかゆくて掻いてるだけかもしれないし、またこの写真が撮られた場所が実際に戦場であるかの証拠も何も無い。
そう考えてみて初めて、このナクトウェイの実は意図的なプレゼンテーション、ラシャペルのうそであることを包み隠すことのない過剰演出、そしてニュートンがやって見せる被写体との共同作業としての演出とが交差してくる。
(+ プラス) ドゥパルドン
さらに階段を上った最上階、屋根裏だからなのかしらやけに薄ら寒い部屋では、もう一つ別の企画が催されている。フランスの写真家レイモン・ドゥパルドン (RAYMOND DEPARDON) による映像インスタレーションと写真の展覧会 VILLES/ CITIES/ STÄDTE 都市 都市 都市。 (ここで展示作品のスライドショーが見れます。ページ右下の Diashow starten をクリックしてみてください) 階下の3人展の演出過剰気味な写真群とは鮮やかな対比をなすように、ドゥパルドンは自身の主観や感情を決して介入させないよう可能な限り被写体との距離を保とうとしている。特に映像作品。観客をぐるりと取り囲む計12のスクリーンにはカイロ、上海、ニューヨークなど世界各地の街の日常的風景が同時に流される。道を横断、通行する人々。時にカメラはその中の一人を捉え一瞬追いかけるが、人物はすぐに雑踏の中に消えていく。作家は各都市に3日滞在制作、写真機と16ミリカメラ、5分間長のフィルムカートリッジ10本を抱え、演出・再撮影は一切せずに制作する。そういった主観に左右されてしまう要素を排除しようとする制作スタイルは、世界をどれだけありのままに見ることが出来るのかの挑戦のように見える。
写真は 「真を写す」 と日本語で表記されるように 「物理的に」 現実を写し取るけど、それは本当に私たちにとっての現実と呼べるのか?ある事実が個人の目を通して切り取られ、ある瞬間故意にシャッターが切られる時、そこに作家の意図やまた観る者自身の投影が入り込むことが避けられない。ナクトウェイの完璧にドラマチックな写真がドキュメンタリーと呼ばれる時、ドキュメンタリーってなんなんだろう、と考えてしまう。もし写真も映像も、絵画と同程度の虚構性を含むとしたら、絵画もある時にはドキュメンタリーと呼ばれていいはずなのに・・・? 写真における 「現実」 って、写真があくまでも 「物理的に」 物事を写し取るという私たちの機械信仰のあらわれに過ぎないのでは。
NEWTON-NACHTWEY-LACAPELLE, "MEN, WAR&PEACE" は 2007年5月20日まで
RAYMOND DEPARDON, "VILLES CITIES STÄDTE" は 2007年4月1日まで 写真美術館ヘルムート・ニュートン財団、ベルリンにて
この写真美術館のある動物園駅の裏側は、福祉施設もありホームレスの溜まり場。ここを通るたびに西ベルリン映画 「クリスチーネ F/ われら動物園駅の子どもたち」 を思い出してしまいます。麻薬中毒の子供たちは居ないけど。ひょっとして今居る彼らが当時の子供なのかしら。
2007年2月11日日曜日
建築家の腹
その映画祭にシンクロさせた企画だと思うのですが、ピーター・グリーナウェイが大学で講演をするというので予習のつもりでDVD を借りてみました。とはいえなんかめんどくさくなってしまって実際の講演会には行きませんでした。ベルリナーレが憎いといいつつ、実は怠惰な自分が憎いのかもしれませんね。
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「建築家の腹」 ピーター・グリーナウェイ
ローマの全体主義的なばかでかい建築物を背景に繰り広げられる人間くさいドラマ (あらすじ)。現代に生きるアメリカ人建築家が主人公。 (歴史の深遠さや異文化に打ちのめされる現代人の姿を描こうとするときに、アメリカ人を主役に据えるのはよく踏襲されるパターンのような気がする。シェルタリング・スカイとか)
- その設計が、現実には何一つ実現されることなく消えていった18世紀の建築家ブーレ。彼の展覧会を企画する現代建築家。そのアイデア故に偉大である過去の建築家と、またそのアイデアのみで構成された展覧会を企画する現代の建築家。この純粋な観念性と、背景に映し出されるローマの堅牢な巨大建築物。 (観念性と物質性)
- 石で出来たローマ歴代の皇帝は時間に耐え、その腹は病理に蝕まれることない。生身の建築家の腹は時間と共に癌に蝕まれていく。観念世界の恒常性と人間の肉体のはかなさの対立。 (精神と肉体)
- その人間である建築家は妻の腹に子を宿し、自分の腹に癌を巣食わせる。子供の誕生と同時に窓から身を投げる男。(男と女、死と誕生)
これら二項対立の思考は徹底した左右対称、一点消失の構図として視覚化される。
フェリックス・ゴンザレス=トレスの正方形
展示期間等、不明。
2007年2月8日木曜日
ウィリアム・ケントリッジ 「月世界旅行」
また、木曜のただの日にハンブルガー・バーンホフに行ってしまいました。南アフリカ出身の白人作家ウィリアム・ケントリッジの作品を美術館が購入したということで、お披露目の展示がありました。
大きい暗いホール内に映写スクリーンが大小合計8つ。作家自身が自分のドローイングの前を行ったり来たりしながら描いては消し、思考する創造のプロセスが小さいフォーマットでいくつも映写される。作家はドローイングの向こうに側に何かを見極めようと躍起になる。壁にかかる数あるドローイングの中には日本人にも馴染みの深い小説 「星の王子さま」 に出てくる帽子 (あるいは象を飲み込んだうわばみ) のイラストに似たものもあって、そんなところからも作家の思考を垣間見せる。
いつしか裸の女性が作家の背後に寄り添う。作家はその存在にぼんやりと気づきはするが実在をはっきりとつかむことは出来ない。美の女神に寄り添われるクールベの自画像 「画家のアトリエ」 を想わせる。寓意を通した、芸術家である自身の存在表明。William Kentridge / JOURNEY TO THE MOON
ベルリン・ハンブルガー・バーンホフ現代美術館
2007年5月6日まで
2007年2月7日水曜日
ミニマルオブジェの空っぽさ
元祖: ロバート・モリスの人柱 (1961)。まるで見知らぬ人が隣に立ってるみたいな 「擬人性」 からマイケル・フリードに批判されたモリスの人型オブジェ。

ハンス・ハーケのエコシステム・イン・ザ・ボックス (1968)。立方体内で水が蒸発して再び水に循環。

ブルース・ナウマンのコンクリートのかたまり (1968)。中にはテープレコーダーが埋まってて音が出るらしい。コードから電流を充填する。

ソル・ルウィットの入れ子キューブ (1966)。観念的な箱の中の箱。さすが有名作品だけあって、他よりずいぶんひねりがあります。

そしてエイドリアン・パイパーは文字通り意味をつめこむ (1968)。

ところでロバート・モリスの人間大オブジェは、その存在感で観者を圧倒しようとすることのみで成立しているという点において、ベルリンの 「ホロコースト記念碑」 に通じるものがある気がする。ひょっとしてこんな風に記念碑に応用されてしまうもやもやした現前 (Presence) こそが、マイケル・フリードが 「演劇的」 として警戒し、否定しようとした点なのかしらとふと思った。どうなんでしょう。
マイケル・フリード 『芸術と客体性』(Michael FRIED, "Art and Objecthood")
これがその高名なミニマル批判の論文です。
2007年2月6日火曜日
和辻哲郎『古寺巡礼』
現象学の哲学者フッサールについてのゼミナーで、ドイツ人教授が、現象学的な観察方法として何度も和辻哲郎の名を挙げた。でもワツジじゃなくてワチュイと発音するので最初誰のことだかわからなかった。本を探し出してとりあえず読んでみることにした。古寺巡礼。奈良京都の仏像の鑑賞記。ものすごく主観的なところから出発して結局主観論から脱出することなく、それが徹底して貫かれていてちょっとすごい。壁画に描かれた女性の色気にまず自分が参りそれもまた僧を悩ませたであろうと考えてみたり、仏像の目の離れ具合からモンゴル系だろうとか出身地を憶測したりと全く思い込みの域を出てない部分多々あり。しかも手に負えないほどの感動屋さん。ちょっとでも学術的に仕事したことある人ならこの実証を全く伴わない論理の帰結に、え、これでいいの?と、とまどってしまうのでは? ・・・ そう思いつつ他方で、いくら資料を集めて分析して実地に基づいて検証したとしても人は何を知りえるのだろう、とも考えてみる。客観的であるはずの知識でさえも結局は主観から独立しえないのでは? 本を読み込んでいくとその徹底的に主観的な観察は、時にすごく深いところに突き進んでいくことに気付く。例えばアジャンタの壁画の女性のふくよかさと僧の禁欲生活との矛盾から導かれていく考察。そういった矛盾は概念を通して物事の一面のみ観察することから生じるのであって、そうではなく 「生きた全体」 として物事を捉えなければならないということを筆者は指摘する。旅路の温泉宿。湯船につかりながら極楽気分で西洋と日本の風呂の違いについて考える。湯気立ち昇るただ中での全体的考察、これが現象学か。
2007年2月5日月曜日
Late Shift: reacTable @ Foyer
ここでこの仕組みを説明してくれたのがへび。このテーブルが銀行にあるタッチパネルのようなインターフェイスの役割を果たし、テーブルの下からカメラで机上のオブジェの動きを読み取り、コンピューターがそれを音と映像に変換しているそうな。聞いてみれば当たり前のようなことだけれど、それを聞いてしまった私はがっかりした。知らなかったうちは、まるで自分がDJになってターンテーブル上に表れる記号をサイコロで操作して音を操っているみたいな錯覚があって、記号と音とが共鳴しあってると信じてた。でもその私が思い描いていた音と映像の共鳴は実際はコンピューターのプログラムを介したもの。結局は数字に変換されるもの。それってまるで人を騙してるみたいと憤慨すると、それは人間にいいんだとへび。実際にこのテーブルの下に設置されたコンピューターがやっているようなことは人間の脳もやっていること。映像と音、この異質の情報源をイメージ化して勝手に結びつけているのは人間の脳。音楽と映像をイメージ化してお互いに繋げ合う自分の脳の働きを人間が知る必要がないように、コンピューター制御のしくみを知る必要も全くない。そうなんだ。音と映像を結びつけて特定のイメージにして感動出来るのはだから人間だけなんだ。この人間の能力はカントのいう 「構想力」 と関係があるのかしら。
反省: 今回は展覧会だけ見るために最終日に慌てて行ったので、人が多かったしゆっくり観れなかった。来年は事前にチェックしてイベントやコンサートにも参加してみようと思う。
トランスメディアーレ 2007
メディア・クンスト祭りというぐらいだから先端技術の導入が目立つ見本市的な展覧会では? という予想に反して、今回 unfinish! と題された展覧会には技術的進歩と人間性を結び付けようとする少しアイロニカルでアナクロな、でもアートでしか出来ないような表現が目についた。そんなようなのをいくつか取り上げてみたいと思います。
Against God by Water Pistolモーン・ナ (Moon Na 韓) による1分40秒のビデオ作品。雨の降る街角に作家自身が手に水鉄砲を持って立ち、それをゆっくりと天に向けて撃つ。発砲された水は雨と一緒になって再び本人に降りかかる。子供のおもちゃ “水鉄砲で神に逆らう“ (作品タイトル)。
Random Screenアラム・バートル (Aram Bartholl 独) による 「ランダム・スクリーン」 と題された立体作品。縦横1メートルほどの大きさのライトボックス。ランダムに点滅する単体はコンピューターのピクセルやテクノクラブのデコレーションを思わせたりと、近未来なイメージ。ところが一歩背面に廻ってみると実は、蝋燭 (こちらの家庭でよく見られるお茶を保温するためのもの) の熱とその熱を利用して回転するように切り抜かれたアルミのビール缶が、不規則に点滅するライトボックスの仕掛けであるという種明かし。ハイテク/ ローテク、非日常/ 日常のアンビバレント。
Rootsロマン・キルシュナー (Roman Kirschner 墺) の電極を利用した作品。茶緑色に濁った溶液で満たされた水槽の中で増殖し続ける金属結晶。その先端は気泡を発して植物のような有機的な変容を見せる (タイトルは 「根」)。アーチストはペルシャにおいて昔から見られるイメージ 「頭から生える木」 からインスピレーションを得たそう。展覧会カタログの説明によるとこの作品にはもう一つ50年代アメリカの人工頭脳学者ゴードン・パスクが考案した 「ケミカル・コンピューター」 のアイデアが織り込まれているそう・・・ (ここからは理系へびの説明): コンピューターの構造の基本はまず0と1、この二つの異なる状況を作り出すことから始まり、そしてその差異を認識して信号化する装置が必要となる。この二つの異なる状況とは、電源ON/ OFF、りんごがひとつ/ ふたつ、など読み取り可能なものであれば何でもいいとのこと。つまりこの 「ケミカル・コンピューター」 では、溶液中の化学反応による化学物質の濃度差が0と1を代理する。この水槽内の化学反応は音として再生され、室内には心臓の鼓動のようにも聞こえる重低音が一定のリズムで響きわたる。コンピューター装置と人間の類似。ペルシャに古くから伝わるという人間の脳天から生える藪のイメージは、このコンピューター内で増殖する結晶の姿と重なり合う。(参考はココ)
transmediale ausstellung unfinish!
1月31日から2月4日まで。
ベルリン芸術アカデミー(Akademie der Künste, Hanseatenweg/ Tiergarten) にて
トランスメディアーレ2007/ 公式サイト
ちなみに昨年のホームページも凝ってて面白いので是非見てください。今年のも去年のもページ上部のイメージ部分をクリックすると音と絵が変わります。
2007年2月4日日曜日
映画 「死ぬまでにしたい10のこと」
癌で余命幾ばくもないことを宣告された23歳の女主人公が、死ぬ前にしたいことをノートに書き上げそれを実行に移していくストーリー。2人のまだ幼い子供たちが18歳になるまで毎年誕生日にテープに吹き込んだメッセージを受け取るよう工面し、夫と子供のために新しい女性を見つけ、刑務所にいる父親に会いに行き、見知らぬ男性と恋愛をしてみる。映画そのものは彼女の最期を見ることのないまま終わってしまう。
見終わった直後は突然のラストに、あれ、とちょっととまどったけど、一晩寝て起きた後にいい映画だったかもと思った。主人公は自分がこの世から居なくなってしまった後にも続いていくであろう親しい人たちの人生に想いを馳せ、その想定する未来に拠って行動する。主人公の行動を描写するベースとなるストーリーの基盤上に、主人公が思い描く未来が見えない物語層として重ねられている。主人公が死後未来を見ることが出来ないのと同じように、観客もまた主人公に感情移入しながら、決して見ることのない映画終了後の未来に想いを馳せる。物語構造が重層化されていてそれが作品の厚みになっている。原題は 「My life without me」 (私が居ない私の人生)。ちょっとだけポイントずれてる商業用日本語タイトルが私を悲しくする。
「死ぬまでにしたい10のこと」 公式ホームページ
2007年2月1日木曜日
ユダヤ人犠牲者のための追悼碑

1月23日付けのフランクフルター・アルゲマイネ新聞。「史実は芸術よりも心を揺さぶる」というタイトルで、ベルリンの中心部に建つホロコースト追悼碑を訪れた小中学生たちへのアンケート調査の結果を報告している。この2005年5月から開設された「ヨーロッパ・ユダヤ人犠牲者慰霊館」は地上のホロコースト追悼碑と地下に設置された資料館その2つの施設から成り立っている。子供たちの回答にはどちらかというと資料館でのホロコーストの歴史に関する展覧会に心を動かされたという意見が目立ち、追悼碑そのものからはなかなかその趣旨を汲み取れていないという傾向が見られる、というのが記事の伝える内容。
この見渡す限りの灰色の瓦礫群はまるで旧約聖書の中の風景のようでもあり、或いは直立し地中に埋没する形体はアイデンティティーを奪われ抹殺されていった被害者達を象徴してるようでもあり、視覚的には読み取り方が開かれていながらもそれが限定された主題(ホロコースト)と知的に重なり合っていて、私がこの追悼碑を初めてみたときには割と感銘を受けたのを覚えている。追悼碑といえば通常は、英雄や犠牲者などの人物をかたどったブロンズ像が立っていたり物語を説明するレリーフが掛かっていたりしてそこがどういった場所であるのか読み取ることが出来る。あるいは瞑想のための祭壇を設置するなど宗教建築から借用した形式を取り入れることによって、訪問者は自分がどういった振る舞いをすればよいのか自ずと分かるような仕掛けがされている。そういった意味でこのホロコーストによる犠牲者追悼碑のもつ開かれた抽象的な性格、つまり造形のシンプルさが作品の自由な解釈を個々に委ねる点と、場内で各自が自由に行動できる開放性といった点は、表現における自立した強靭さであるが、同時にまた弱みでもある。その弱みの部分がこの記事では子供の目を通しながら取り上げられている。

確かに実際ここを訪れてみると、コンクリートの柱から他の柱にぴょんぴょん飛び乗って遊ぶ子供がいたり、大人でも柱の間をさまざまに巡ってみたりしてやはり「楽しい遊び場」 という気持ちの方が強い。それに立地。ブランデンブルク門とポツダム広場の間そして追悼碑の向こうには連邦議会が見渡せるという、人寄せが容易で政治的効果も大?といった以外に必然性を見出せないロケーションは自ずとエンターテイメント性を増してる気がする。しかも車通りが多くてその騒音で深刻に瞑想する気分でもないし。また記事によると予算不足で(ベルリンではよくあるパターン)最初の計画よりだいぶ縮小されてしまったのだそう。これが当初の計画通りの大きさで、見る人を威圧するようなものだったらまた話は違っていたのかもしれない。
こういった実際的な問題は置いておいて今回言いたいポイントは、言葉から得る情報と視覚から得る情報の質的な違い。この追悼碑では地上と地下 (地上にそびえたつコンクリート柱と地下の資料館) にその二つの役割がちょうど二分されて与えられている。子供たちは資料館の展示から得た知識に多くの感銘を受け、コンクリートの柱には意義を見出せなかったとアンケート結果は指し示したそうだけれど、この追悼碑のように抽象性が高く純粋にビジュアル的なものって、そこから感受したものを言葉に変換して他人に伝えることは可能なんだろうか? 言葉が指し示す内容は100%確実に他人に伝達されるけれど、視覚芸術にもそれが出来るの? 言葉のようには具体的な事物を指し示すことの出来ず、解釈が自由な (ように見える) 抽象芸術は、人と人とを繋ぐ共通言語であり得るのだろうか? この追悼碑の目的を全く知らない人がこれを見たとき、その人々の間には共通の理解が生じてるのだろうか?
柱の間に隠された地下の資料館へ通じる入り口

参考記事:Christian Saehrendt: Information beeindruckt mehr als Kunst. Eine Umfrage unter Schülern nach deren Besuch des Holocaustmahnmals. In: Frankfurter Allgemeine Zeitung, FAZ, Frankfurt am Main 23. Januar 2007 リンク
2007年1月22日月曜日
恋愛睡眠のすすめ
ミシェル・ゴンドリー、サイレンス・オブ・スリープ
なんか観た映画の悪口ばかり書いてる気がしてちょっとだけ罪悪感にかられたので、最近観た中で良かった映画を思い出して引っ張り出してみました。
何がよかったかというと、理想化で恋に恋する夢見がちな主人公の主観的時空間に沿って、映画の時空間が作られていて、それがすごくうまくいってるからです。
タイムマシーンが機能したり、夢と現実がごっちゃになった後で現実世界のギャップに突き当たったり。そんな経験、身に覚えがある気がします。
ホームページ:
http://www.science-of-sleep.de/start.html
ところで、シャーロット・ゲンズブールの脚にはびっくりしました。
ザ・ファウンテン
π (パイ) のダーレン・アロノフスキー監督の新作を ハッケッシャー・マルクトにある映画館キノ・ツェントラールで観た。主人公の男性は現代に生きる脳医学の研究者で、猿の脳を解剖してて、奥さんは病気でもうすぐ死ぬらしい。そして中世ヨーロッパに生きる同主人公は、奥さんと同じ女優が演じるお姫様の願いで、不老不死の薬を探す旅に出る。そしてもう一つ、未来の大きな木の下に佇む主人公。この3つの異なる時間軸が前後入り乱れながら、物語が進んでいく。現代の奥さんが癌で亡くなって、その奥さんがノートに書いていた物語が過去の中世の騎士物語と繋がり、その物語に登場する主人公が最後に不老不死の木を見つけた時点で、未来に生きる主人公の姿へと繋がる。ストーリーは単純。愛する妻の死を主人公が時空を超えた心の旅を終えて乗り越える。登場人物達の演技は大げさ。とても悲しいのは分かるんだけどいつも同じトーンで深刻すぎるのはかえって現実味に欠ける感じで、演出の意図に反して観客の方がしらけてしまうような場面も。映像的にはきれいに出来てるところもあるけど、例えば未来の主人公が浮かび上がって座禅のポーズのまま宇宙空間を駆け抜ける場面などは、新興宗教の教育ビデオを見ているようなキッチュさ。これが真面目すぎる演出と相乗効果を生んで、ちょっと正視するのがつらかったりもした。
一番気になったのは、マヤの古代文明、中世ヨーロッパの異端尋問、東洋宗教のヒッピー的解釈 (?) といった、あらゆる神秘主義的事象が全く節操なくミックスされているところ。(そしてそれらの精神世界が収斂するのがここでは現代の脳医学。) こういった、異文化の神秘的なエッセンスだけをリアリティーが欠如した形で困難なく採り入れてしまって、その上でまじめでいられるところが、アメリカなのかな、と考えた (行ったことないけど)。そういう文化人類学的興味で観るならおすすめ。
体験する絵画
ギャラリーに設置されたインスタレーション。ちょうど人一人が通れる狭い入り口を入るとそこはピンクと白のストライプの世界。ヨーゼフ・アルバースの色面絵画やバーネットニューマンのストライプ絵画の中に入り込んだよう。内部は3つの細長い空間に仕切られていて、次の空間への通路とストライプの色面との判別はつきにくく (写真の右側の壁を良く見てください) だまし絵のようになっていて、鑑賞者は内部を動き回りながら自分でその通路を発見することになる。
入り口を入ってすぐの部屋はピンク X ホワイトのストライプ。白部分が少し光沢のあるペイントで壁表面の物質感が感じられるのに対し、ピンク部分はマットに処理されていて光を吸収し、物質感が消え色自体が奥行きを持つ。内部に入って左には、自然光を採り入れる窓があり、ここではもともと展覧会場にあった条件が作品に計算高く取り込まれている。入って右にはピンク色のネオン灯に照らし出される小空間がくりぬかれている。窓からの自然光とネオンの人工光は、色面に異なった表情を与える。そのピンクのネオン管に灯された小部屋はちょうど人間一人が入り込んで座れるように、台が設置されている。この光の小部屋はジェイムズ・タレルの光の絵画を想わせ、「色」 はここでさらに非物質的なものとして体験される。また、ちょうど人間サイズの空間はロバート・モリスの 「擬人感」 を想わせ、ここで作者の意図的な出発点が明確になる。
次の部屋はグリーン X ホワイトのストライプだが、なんとなく部屋の印象が薄暗い。感覚を思い切り研ぎ澄まして色面を観察すると、白だと思ってたの色面は青味がかったグレー。また、黄緑一色だと思っていた色面もよく見るとそこには紫が微妙に混ざり、ピンクのネオンの反射と同一化して、通路の凹みを気づきにくくしている。最後の部屋はシルバー X ホワイトのストライプ。シルバーという、モノクロームでありながら光沢のある、今までの色面とは質の異なる組み合わせがされている。蛍光灯のピンクの光も銀色の色面に反射され、白い壁面に対してその質感が際立つ。
最後に同じ経路を辿ってインスタレーションの外に出てみて初めて、内部に入る前に持ってた期待に対して、ずいぶんのっぺりした平面的な空間だった、と思う。そうしてみると、まるで絵画キャンバスの裏側を見るような、このそっけない建てっぱなしの外観に、あ、この作品は立体でありながら絵画的イリュージョンの問題を扱っているんだと気づく。

Rodney LaTourelle: "in the absence of unambiguous criteria"
(von 11.01.2007 bis 01.03.2007)
PROGRAM :: initiative for art + architectural collaborations
Invalidenstraße 115, 10115 Berlin Mitte
アーチスト INFO:
http://www.canadianarchitect.com/issues/ISarticle.asp?id=70733&story_id=CA133294&issue=02012002&PC=
展覧会 INFO:
http://www.programonline.de/
2007年1月13日土曜日
キム・ギドク 「春夏秋冬そして春」
仮想の境界
この映画では 「ドア」 が象徴的な使われ方をしている。湖上の庵に住む僧達が外界に出るとき、彼らは小船に乗って岸までたどり着き、そこから岸辺に建てられた門をくぐり、外界へと出る。そのドアは聖と俗の二つの世界の境界になる。そして幼年僧と若年僧とがそれぞれ罪を犯すのもこの境界の外。また、湖上の庵の内部にはいくつかの部屋が設定されているが、部屋ごとの仕切りであるべきラインには壁が無くぽつんとドア枠が立っているだけ。「どこでもドア」みたいなドア枠。登場人物達は隣の空間へと移動する際、いちいち律儀にそのドアをくぐる。部屋を仕切る壁は登場人物達のみに存在し、観客には見えない。ある夜、少年僧が眠り込んだ老僧のとなりの床からそっと抜け出し少女の横たわる部屋へと忍び込むとき、彼は一度ドアを通りぬけようとするが、思い直してドアを通らずにその脇から境界を越える。禁じられた行為の暗示。こういう仮想の境界って、仏教寺院に見られる結界に似ている?

聖と俗、二つの世界の対立と、さらなる鳥瞰パースペクティブ
映画冒頭からラストシーンに至るまで、観客には聖と俗、山に囲まれた湖上の世界と外にある世俗界、この二つの世界しか提示されない。主人公の僧は幼年から青年期を経て壮年にいたるまで絶えずこの二つの世界を行き来し、同時に過ちを繰り返す。俗世界は観客には見えない (見ることが出来ないのは映画の中だけ。なぜなら俗世界とは映画を見ている観客の居る世界だから?)。子供を捨てた女性が事故で死んだ後、何を思ったか僧は観音様を背負って山に登る。斜面を這いつくばるように登りながら彼は自分が虐めて殺してしまった動物のことを考える。そして映画のラストシーンは山頂に置かれた観音像とはるか下に見える湖上の庵の風景。それまでの聖と俗の二元的世界に対して、映画の一番最後になって初めて、湖上の世界を上から下へと見下ろす第三の視点が導入される。
映画タイトルが示すように、子供から大人へそしてまた子供へと同じ過ちが繰り返され、季節も春から冬そしてまた春と永遠に繰り返される。そういった時間的反復とはまた別にもう一つ、永遠に反復される空間性をもこの鳥瞰風景は指し示す。僧がこれまで自分が存在した世界を見下ろし、自分自身を自ら虐めた小動物のように感じるように、空間は入れ子状に何重にも重なる。我々が見下ろす小動物の世界が存在し、それ故に我々人間の存在を身下ろすさらに大きな存在がある。
一緒に映画を観たドイツ人2名には、仏教寺院が舞台であるところから自動的に仏教的世界観を映画に期待し、そしてそれが宗教であるという理由だけでキリスト教のシンボル的なイメージの取り扱い方をあてはめようとしてしまうみたい?百合の花 = 純潔、みたいな。そういう辞書を引いて意味を解読するのとは違うイメージ解釈の方法があること、それがこの映画を観て考えたこと。
2007年1月12日金曜日
ハンス・ハーケ展
ベルリンのパリ広場にある美術アカデミーでハンス・ハーケの展覧会をやってる。彼のインスタレーションは設置される場所と密接に関係してそこから意味が発生する要素が重要なので、この展覧会は過去の活動を回顧してカタログ的に紹介するもの。なのでパネルに張られた作品写真を拝んで、壁に掛かってる説明をひたすら読むのがテーマ。立ってるのもつらくなるし、かなり充実した時を過ごせます。
政治的コンセプチャル・アート
ハーケといえば1993年ベネチア・ビエンナーレの 「ゲルマニア」 が有名だけど、彼の名をドイツ人一般に知らしめた作品が 「DER BEVÖLKERUNG」 (2000): このページの "abrufen" をクリックすると入力日時の作品が見れます。ブランデンブルク門の隣、東西ベルリンの境界にあったため戦後長いこと放置されていたドイツ連邦議会。首都がボンからベルリンに移り建物が修復され、そこに設置する美術作品として招待作家のひとりであったハンス・ハーケが提案したのがこの 「DER BEVÖLKERUNG: 居住民に」 。この作品の出発点は、ドイツ連邦議会の建物の正面に1916年からに記されている 「DEM DEUTSCHEN VOLKE: ドイツ国民に」 という言葉。ここでの VOLK (国民) という言葉がどちらかというと 「ドイツ民族」 という血統を強調した表現と誤って理解されがちであることにハーケは異議を唱える (リンク) 。連邦議会堂の中庭に置かれた DER BEVÖLKERUNG (住民: この地に居住する人々、といった意味) という文字をかたどるオブジェの足元には当時の議員がそれぞれの出身地から持ち寄った土を敷き詰め、その後放置される。DER EVÖLKERUNG の文字をかたどったオブジェは、その土から生える雑草の中に次第に埋もれていく。当時、ドイツ保守である CDU (キリスト教民主同盟) の議員が作品設置に対しての反対キャンペーンを実施したという、まるで作り話のような、よくそんな罠にまんまとはまる議員がいたものだと思わせる事件も起き、作品が一般にも知られることとなった。展覧会会場では連邦議会で行われた当時の議論のビデオが流れる。

人を怒らせることをわざとして、その人の本心を暴くやり方って・・・。それが許されていいかは別の問題として、作家としての活動初期からその手法が取られていることがこの展覧会では観察できる: 1971年の、「シャポルスキーとマンハッタン不動産所有者他 実況社会システム 1971年5月1日付: Shapolsky et al. Manhattan Real-Estate Holdings, a Real-Time Social System, as of May 1」 。ニューヨーク・マンハッタンにある不動産の正面写真と売買の記録が淡々と並べられ、それらの不動産売買を通じて親会社であるシャポルスキー・グループのみが利益を得るからくりが暴露される。ハーケは当時この作品を他の作品と共にある美術館のある企画展 (名前思い出せず) に出品し、美術館側から拒否され、それでも出品をあきらめなかったら、ついに展覧会の企画自体がお流れになってしまったのだそう。そこで当時憶測された拒否の理由は、美術館の運営委員にシャポルスキー・グループに関係する人間がいる事実からである、ということ。私がこれいいな、と思ったのは作品のありかたが純粋にコンセプチャルだから。同じように政治的な連邦議事堂の作品においては、設置場所がアートの文脈を離れるために、そしてそれでもなおかつアートであり続けるために、彫刻としての体裁を提示しなければ成立しない。ちょっとパラドキシカルだけど、「シャポルスキー」 のような初期の作品は純粋にコンセプチャル (非物質的) でありつつ、アートを成立させる体制の文脈を意識的にかき乱すことによって作品が成立していた。
エコシステムとしての社会構造

今回の展覧会最大の謎は、60 年代ミニマルの影響を受けた彫刻作品群。壁面にずらっと説明パネルが並ぶ真ん中に、どん、どんと微妙に違ったコンセプトを持つ彫刻作品が置かれている。挑発的なポリティカル・アーチストといったハーケのイメージとはずいぶん異なる。「波」 と題された、透明なアクリルの薄いケースに閉じ込められた水が波のようにゆらゆらゆれる作品や、青いナイロンの旗が下から扇風機の風に煽られて翻る作品など。これらのミニマルの姿を借りた生態学的な作品群が彼のその後の政治的姿勢とどのように関連してくるのかが簡単には語り尽くせないところで、一番面白いところでもあると思う。ただ「循環」 というゴム管の中を水が一つのモーターを起点として循環する作品が提示する生態系的モデルと、不動産を巡り一企業に利益が回収されていく利害関係についての相関図が一致するのに気づくき、DER BEVÖLKERUNG が自然発生する雑草に覆われていることに想いを馳せると、結局一人の作家は時代と共に作品提示の方法論さえ変わって行くけれども作家としての本質的な基本姿勢は変わらないんだなと、いつもながら思う。で、その変わらない姿勢って、どういうことなんだろう。

HANS HAACKE
wirklich
Werke 1959-2006
Ausstellung 18.11.-14.1.2007
Akademie der Künste / Pariser Platz
展覧会サイト:
http://www.adk.de/de/aktuell/veranstaltungen/i_2006_1/HANS-HAACKE-wirklich.htm
会場風景:
http://www.adk.de/de/aktuell/veranstaltungen/i_2006_1/Hans-Haacke-Installationsansichten.htm
作家について:
http://www.b-sou.com/palm-Haacke.htm
注意!
ベルリンにはアカデミー・デア・キュンステ (芸術アカデミー) が二つあります。そしてむやみに出かけてみると必ず間違えます。施設や機関がなんでもふたつづつあるのは、東西二つのベルリンが存在したと言う歴史ゆえそれがこの街のおもしろいところでもあるんだけど。展覧会を訪ねる場合はどちらのAkademie der Kuensteが会場か絶対に確認してから出かけましょう。でもたぶん私がばか。
