キム・ギドク監督の韓国映画 「春夏秋冬そして春」 を見た (goo 映画)。ストーリーから読み取れるメッセージはずいぶんひどい。登場人物全員がシリアスすぎて、その生真面目さも純粋すぎると言うか根拠不明で不気味。動物を苛めたからといって罰を受けたり、女性と関係を持つことがさもいけないことであったり、子供を見捨てた母親がすぐ死んでしまったり。ちょっと真面目さに奥行きが無くて、この監督きっと傲慢なひとなんじゃない?と思ってしまう。ごめんなさい。一緒に観たドイツ人は二人とも憤慨。ドイツ男は、仏教僧は飄々としてて面白い人たちというイメージが自分にはあって、でもこの映画ではずいぶんくそ真面目で一直線で 「みんなナチ」と問題発言をしてたし、ドイツ女は、女性という存在自自体が罪といわんばかりの描写に不満だったよう。そういえば同監督の 「サマリア」 (goo 映画) も父権主義的という点で同じくらいひどかった。わたしは主人公の父親を殺したくなりました。 ・・・と憤慨しつつも、この映画を純粋に造形的に、または映画的時空間の構築といった面から見てみたら、なんだ結構悪く無いじゃん、しかも面白いじゃん、となりました。
仮想の境界
この映画では 「ドア」 が象徴的な使われ方をしている。湖上の庵に住む僧達が外界に出るとき、彼らは小船に乗って岸までたどり着き、そこから岸辺に建てられた門をくぐり、外界へと出る。そのドアは聖と俗の二つの世界の境界になる。そして幼年僧と若年僧とがそれぞれ罪を犯すのもこの境界の外。また、湖上の庵の内部にはいくつかの部屋が設定されているが、部屋ごとの仕切りであるべきラインには壁が無くぽつんとドア枠が立っているだけ。「どこでもドア」みたいなドア枠。登場人物達は隣の空間へと移動する際、いちいち律儀にそのドアをくぐる。部屋を仕切る壁は登場人物達のみに存在し、観客には見えない。ある夜、少年僧が眠り込んだ老僧のとなりの床からそっと抜け出し少女の横たわる部屋へと忍び込むとき、彼は一度ドアを通りぬけようとするが、思い直してドアを通らずにその脇から境界を越える。禁じられた行為の暗示。こういう仮想の境界って、仏教寺院に見られる結界に似ている?
聖と俗、二つの世界の対立と、さらなる鳥瞰パースペクティブ
映画冒頭からラストシーンに至るまで、観客には聖と俗、山に囲まれた湖上の世界と外にある世俗界、この二つの世界しか提示されない。主人公の僧は幼年から青年期を経て壮年にいたるまで絶えずこの二つの世界を行き来し、同時に過ちを繰り返す。俗世界は観客には見えない (見ることが出来ないのは映画の中だけ。なぜなら俗世界とは映画を見ている観客の居る世界だから?)。子供を捨てた女性が事故で死んだ後、何を思ったか僧は観音様を背負って山に登る。斜面を這いつくばるように登りながら彼は自分が虐めて殺してしまった動物のことを考える。そして映画のラストシーンは山頂に置かれた観音像とはるか下に見える湖上の庵の風景。それまでの聖と俗の二元的世界に対して、映画の一番最後になって初めて、湖上の世界を上から下へと見下ろす第三の視点が導入される。
映画タイトルが示すように、子供から大人へそしてまた子供へと同じ過ちが繰り返され、季節も春から冬そしてまた春と永遠に繰り返される。そういった時間的反復とはまた別にもう一つ、永遠に反復される空間性をもこの鳥瞰風景は指し示す。僧がこれまで自分が存在した世界を見下ろし、自分自身を自ら虐めた小動物のように感じるように、空間は入れ子状に何重にも重なる。我々が見下ろす小動物の世界が存在し、それ故に我々人間の存在を身下ろすさらに大きな存在がある。
一緒に映画を観たドイツ人2名には、仏教寺院が舞台であるところから自動的に仏教的世界観を映画に期待し、そしてそれが宗教であるという理由だけでキリスト教のシンボル的なイメージの取り扱い方をあてはめようとしてしまうみたい?百合の花 = 純潔、みたいな。そういう辞書を引いて意味を解読するのとは違うイメージ解釈の方法があること、それがこの映画を観て考えたこと。
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