映画を使った映画批判
ギー・ドゥボールの映画『スペクタクルの社会』をソニーセンターの地下にあるアルセナールで観た。
ドゥボールが1967年に発表した同名の著書『スペクタクルの社会』の著者本人による映画化。
思想の内容はまず置いておいて、感心したのは、思想を伝えるために映画という形式を取ったことが、文字を追って理解するのとは全く別な意味の構築・生成の仕方をしていること。
映画では、様々なフィルムの断片が繋ぎ合わされ、そこに著書の朗読 (本人による?) そが重ねあわされる。提示されるのは、商品のテレビコマーシャル、セクシーな女性達、高級車、戦争映画や西部劇映画、戦争の実録映像、など。
延々と哲学的内容の朗読が続く他は、ところどころに他の思想家の引用が字幕で表示される。
戦争がエンターテイメント化(スペクタクル?)された映画に続いて、市民の市街戦の実録映像が映される。そこに作家のテーゼ、「近代の生産条件が支配する社会では、生はスペクタクルの膨大な集合として現れる。直接体験されたものは全て、表象の中に消え去っていく」が重なる。
「表象」というのは、ある物(思想や体験など)映画やコマーシャルなどの媒体によって表現化されること。
全ての現実がエンターテイメント化され無となっていく社会を資本主義の悪として批判。そのアイデアの基本を成しているのがエンターテイメントとしての「映画」の存在だというのは、私の個人的意見。
その映画批判を、映画という形式で、映画館で観るのが、銀幕の外で起きる体験として重層さを与えている。
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