MIKE KELLEY/ KANDORSJablonka Galerie
September 29 - December 22, 2007
Kochstrasse 60 Berlin
アート in ベルリン

スケジュール帳上でのドローイング。時間の概念が入り込みます。
ここでもアフリカの織物が並置されていました。
作者はインド人女性らしいです。
リンク: ドクメンタ公式サイト/ 作者紹介
この柱はNeue Galerie の廊下に展示されていた Andreas Geyer の写真作品の前にごく何気なく (?) 置かれていたオブジェ。
(「何気なく」 のつもりがやはりこんな大規模な展覧会ではそうは行かないらしく、オブジェの両脇にはバイトの係員の女の子2名が配置されていました。写真取ろうとしたらどいてくれました。)

写真作品とこんな感じに、全く意味から自由にリンクしてました。 マックラーケンの人工的なオブジェが自然風景と呼応します。
この作品と作品の結びつきにふと気づく感じ、それが一体展覧会の意図なのか、私個人の感想なのか、観客みんなが感じるものなのか、それとも単なる思い過ごしなのかわからないところ、それが今回のドクメンタのキュレーター夫妻が 「美的体験」 (ästhetische Erfahrung: 感性的体験とも訳せる) と呼んでいることらしいです。
人間であれば誰でも何かを 「美しい」 とする感性を持っています。例えば美人の基準は文化圏や時代によって違うとよく言います。女性の美しさの基準にはきっとそれぞれの社会が持つ美徳や規範が反映されるかもしれませんが、ある種の色の組み合わせや形体、日没などの自然美など、文化や時代を越えて万人が共通して感受する 「美」 があるのではないでしょうか?
その 「美」 を観察してみると、法則がありそうでなさそうなところがあります。色彩などの美しさは数値に置き換えて分析可能であるともいいますし、自身を省みてみるとある日美しいと感じたものが次の日にはつまらなく思えたり、自分が美しいと思っても他人はそうは思わなかったり。
それでもどうしても、人間が本能的に思う 「美しい」 という感受性は万人共通であるという考えが捨てきれません。
そんな偶然や不規則性に支配されている 「美」 (或いは 「感性」) が今回のドクメンタでは問題視されています。
似た形体同士の繋がりを感じとる感性が 「美」 を感受する器官と同一であるのかは?ですが、私自身こういったコンセプトは今までに見たことがないため、今回のドクメンタにはかなりポジティブな意見を持っています。
ちなみに、会場内にはところどころ、A4の紙にタイプ打ちされた文章が、まるで展覧会前に取り去るのを忘れてしまったかのように、さりげなく掲げられています。その中のひとつでは、次の2作品の表層的な類似を指摘していました。
Charlotte Posenenske の換気管のようなオブジェ (1967年)。
Louise Lawler の写真作品 (1996年)。

犬の表彰式みたいです。




聖堂の中央回廊にはハインリッヒ獅子王の 「東方征服」 を主題とする壁画が施され、ハインリッヒ3世がヒットラーの精神的な祖先と見做され、祭られていることは誰の目にも明白でした。
下は第三帝国時代の5マルク紙幣。表面にはハインリッヒ3世 、裏面にはブラウンシュヴァイク大聖堂が印刷されています。
戦後、聖堂はナチス以前の形に戻され再びプロテスタント教会として機能し始め、ナチスの痕跡は払拭、歴史は「リセット」されました。現在、中央廊の壁面が真っ白なのはそのためです。
もともとハインリッヒ獅子王が中世に建立したときも、自身の権力を市民に見せ付ける意味が強かったそうですが・・・
この大聖堂の例は、教会のような宗教的な場といえども政治との関わりからは決して逃れられないことを示してます。
それとも、宗教もある時代の政治的権力の一形態なのでしょうか。
参考: Wikipedia/ Braunschweiger Dom
ブラウンシュヴァイクの旧市街には教会がたくさんあります。その中のひとつブラウンシュヴァイク大聖堂に入ってみました。
写真は北側の回廊。この側廊は1466年から1474年の間に増築された部分だそう (教会の起工は1173年)。ねじれたように造形された柱に目を惹かれました。よくみると、柱と天井の造形それぞれが、ひとつひとつ違っています。
先日プラハに行ってきまして、プラハ城内の聖ヴィート大聖堂を見てきました。そこでもそうだったのですが、通常教会は正面のアプシスから着工され長い年月をかけて後方へと教会は建てられていきます。
そのため奥から手前に向かって、様式に変化が見られます。
これが一番奥の、一番古いもの。
そしてこれが一番後方の、年代的に一番新しいもの。この間は8年間。そんなに長い期間ではないですが、造形がかなり複雑緻密になっています。上図は柱に筒状のひもが巻きついたような造形ですが、下図は柱自体がひねられてるように見えます。
この柱の変化に、どういった時代性が読めるのか考えました。 複雑になっていくことが、発展と同義語であった時代だったのでしょうか? または、当時の幾何学の発展とも関連してるのかもしれません。
それともこれの様式の変化は意図的なのかもしれませんが・・・? そうだとしたらなぜ?
もともとは18世紀に建てられた大公のための居城。
第二次世界大戦で大部分を破損していた建物は市議会の決定により1960年に完全撤去。跡地には公園が造られました。その公園も2005年再度完全撤去。そして2007年、再び旧城ファサードが甦りました。オリジナルに忠実に復元。部分的に黒いのは現在残る純正部品。そう思うと真正さがさらに増します。
外から見るとものものしい雰囲気。美術館か何かと思ってしまいますが、中に一歩入るとそこは別世界。
恐るべしや。現代社会を代表すべき消費の牙城。 見事に表面のみがぺらっと歴史的建造物、中身は巨大ショッピングモール。
世界最大のパズルといわれたドレスデンのフラウエン教会再建。ベルリンの旧東独文化宮殿取り壊しとベルリン市城の再建。ドイツは古い建物の再建ブームです。再建の度に多かれ少なかれ賛否両論の論争が起きますが、こんな大胆な例はかつてありませんでした。
公園の撤去と町の経済構造を壊すような計画に反対してここブラウンシュヴァイクでも市民運動が起きたようですが、戦後に城の廃墟が取り除かれる際にも美術史家の反対運動があったそうです。戦後の気分としては市民は廃墟なんて見たくなかったのかもしれません。一体残したらいいのか撤去したらいいのか、もう何がいいのか良く分かりません。ドイツは未だ戦争の後遺症に苦しんでるとしかいえません。
城内ショップ情報はこちら --> Schloss Arkaden Braunschweig
キリスト教碑 (Christentum-Säule) 2005年年末にはクリスマスマーケットが立つ場所。そこにはこんなものが。キリスト教の歴史を構成した柱だそうです。
一番下にはキリスト誕生、そこから中世のキリスト教徒迫害から第二次世界大戦の聖職者迫害などなど、現代のクライマックスまで上に行くにしたがって時間が下っていきます。
そして頂上には
なんと黒煙を上げる世界貿易センター。キリスト教を頂点として(!) ユダヤ教、イスラム教の世界3大宗教のシンボルと共に deus caritas est (神は愛) という教皇ベネディクト16世の言葉が。
キリスト教文化中心の世界図に疑問を提示した事件さえもを自身の受難の歴史に取り込んでしまう大胆な行為。
もしベルリンだったら大変な論争になってしまうようなことが簡単に許されてしまう無垢な町 Braunschweig。
(関係ないかもしれないけど標準ドイツ語 Hochdeutschを話します。)
個人的には楽しい思い出が多いですが。
その後島村は、芸者駒子の顔を鏡越しに見、そこにかつてのガラス窓に映った葉子の顔を重ね合わせる。
「島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように冷たい。なぜならば、汽車の窓ガラスに写る葉子の顔を眺めているうちに、野山のともし火がその彼女の顔の向こうを流れ去り、ともし火と瞳とが重なって、ぼうっと明るくなった時、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふるえた、その昨夜の印象を思い出すからであろう。それを思い出すと、鏡のなかいっぱいの雪のなかに浮かんだ、駒子の赤い頬も思い出されて来る。」
島村は鏡面を通してのみ女性を見つめる。
小説において一貫して女達の内面は全く描写されることがない。島村の眼に写しだされる姿を淡々と描写するのみ。
小説の語り手である主人公を目前にした駒子の発言や行動は逐一描写されても、彼女の生い立ちや行動心理には一切踏み込むことがない。さらに葉子にいたっては第三者である駒子の主観を通した情報しか島村には与えられない。
島村はひたすら駒子を観察し、そして駒子を通して葉子を発見する。観る者としての主人公があってはじめて、この女達の存在が可能になる。
そう考えてみると、島村の主観においては駒子と葉子は同一人物の鏡像であるといえる。
あるいは感情的になることのない冷たい鏡のような自身の内面に駒子の鏡像としての葉子を発見すると同時に、島村は駒子という鏡を通して自己を認識している、ともいえるかもしれない。
ただの鏡像であるはずの葉子はまた、突き刺すような鋭い視線で島村を見返す。
このように小説を通して主人公と女二人との間にある種の隔たりを感じさせておきながら、終盤の火事のシーンにおいては彼らの内面の宇宙が鮮やかに交差しあう (あくまでも主人公の主観においてではあるが)。
燃える炎が駒子の顔に写りこむとき、それは汽車の窓ガラスに見た葉子の顔と重なり、そして舞い上がる火の粉はまるで天の河に吸い上げられ流れ込むようだと描写される。
「その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬いあげられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。」
その二人の女の顔にぼおっと燃える炎は上昇して天の河に流れ込み、それはまた主人公の内なる宇宙へと逆流する。
「踏みこたえて目を上げた途端、さあっと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。」
ラストの一文。

その他の作品はこちらのリンクで。

芝生を種子から育てるための作業所のようですが、設備そのものは実際的な用途として不条理。
ベルリンのグッゲンハイムは小さいです。そして長いです。その、奥にずずっと入っていく空間の特性を利用して逆にオブジェの大きさをいっぱいいっぱいにする作家、多い気がします。何年か前に見た、室内を石膏取りして空間を反転させる作家レイチェル・ホワイトリードの展示がそうでした。
ベニヤ板製工場の中。
建物の壁内をぐるりとベルトコンベアーが回っています。 数分おきにいきなりがたがたと稼動して、光と水を与えられます。
アーチスト本人によると、展示期間中には芝生が増えて、ベニヤ板に繁殖して、工場の屋根を覆うほどまでになる計画だそうです。
展覧会は10月14日まで。(それまでには芝に覆われた屋根を見るのは無理そうです・・・)