2007年8月23日木曜日

雪国

川端康成。

駒子と葉子。二人の女が登場する。

冒頭のシーンにおいて、汽車の窓ガラスの反射を通して主人公である島村は葉子に出会う。実際には 「出会う」 のではなく、主人公側がただ一方的に発見する。ガラスに映る葉子の顔に野火のともし火が重なり合うのを観察しながら、島村はその炎を少女の目の鋭さと重ね合わせ、少女の内面を垣間見た気になる。

その後島村は、芸者駒子の顔を鏡越しに見、そこにかつてのガラス窓に映った葉子の顔を重ね合わせる。

「島村は表に出てからも、葉子の目つきが彼の額の前に燃えていそうでならなかった。それは遠いともし火のように冷たい。なぜならば、汽車の窓ガラスに写る葉子の顔を眺めているうちに、野山のともし火がその彼女の顔の向こうを流れ去り、ともし火と瞳とが重なって、ぼうっと明るくなった時、島村はなんともいえぬ美しさに胸がふるえた、その昨夜の印象を思い出すからであろう。それを思い出すと、鏡のなかいっぱいの雪のなかに浮かんだ、駒子の赤い頬も思い出されて来る。」

島村は鏡面を通してのみ女性を見つめる。

小説において一貫して女達の内面は全く描写されることがない。島村の眼に写しだされる姿を淡々と描写するのみ。

小説の語り手である主人公を目前にした駒子の発言や行動は逐一描写されても、彼女の生い立ちや行動心理には一切踏み込むことがない。さらに葉子にいたっては第三者である駒子の主観を通した情報しか島村には与えられない。

島村はひたすら駒子を観察し、そして駒子を通して葉子を発見する。観る者としての主人公があってはじめて、この女達の存在が可能になる。

そう考えてみると、島村の主観においては駒子と葉子は同一人物の鏡像であるといえる。

あるいは感情的になることのない冷たい鏡のような自身の内面に駒子の鏡像としての葉子を発見すると同時に、島村は駒子という鏡を通して自己を認識している、ともいえるかもしれない。

ただの鏡像であるはずの葉子はまた、突き刺すような鋭い視線で島村を見返す。

このように小説を通して主人公と女二人との間にある種の隔たりを感じさせておきながら、終盤の火事のシーンにおいては彼らの内面の宇宙が鮮やかに交差しあう (あくまでも主人公の主観においてではあるが)。

燃える炎が駒子の顔に写りこむとき、それは汽車の窓ガラスに見た葉子の顔と重なり、そして舞い上がる火の粉はまるで天の河に吸い上げられ流れ込むようだと描写される。

「その火の子は天の河のなかにひろがり散って、島村はまた天の河へ掬いあげられてゆくようだった。煙が天の河を流れるのと逆に天の河がさあっと流れ下りて来た。」

その二人の女の顔にぼおっと燃える炎は上昇して天の河に流れ込み、それはまた主人公の内なる宇宙へと逆流する。

「踏みこたえて目を上げた途端、さあっと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。」

ラストの一文。

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