ところで
東ドイツ出身の30代後半は特殊。
壁の崩壊がちょうど学校の基礎教育が終わって多感な真っ只中に (当時15-17歳くらい?) 東独が消滅し、それまでの教育が意味を失くしてしまったから。しかもいきなりの東西統一で、みんな同じドイツ人になれたのは表面的にはリベラルな最善策だったかもしれないけど、実際は、優秀なドイツ人 (西) と時代遅れな世界観を身に付けたドイツ人 (東) という二種類のドイツ人種が誕生してしまっただけ。
この旧東西ドイツ人の日常レベルでの相克をみてると、とりあえずはお互い別々の国家でもう少し居た方が良かったのではと思ってしまう。
(こんなことは日本語だから書けます。ドイツ人には言えない。彼らも苦労してるので。)
この30代後半というのが転換ポイントで、その上の年代だともうしっかり自己アイデンティティーが形成された後に壁が崩壊 (何言っても聞く耳持たない。それはそれで人格安定してていい感じ)、それ以下だともう昔の断絶は意味を失っててかなり東西混ざってます (若ければ若いほど)。この問題の30代後半の方々はしかし、西は西同士、東は東同士のみのお付き合いの範疇で生息してて、よくよく観察してみると隣り合わせに生活しつつも全く混ざってません。びっくりするほどです。
そう、それで美術に因んだ話。
こんなことがあった。ある旧東ベルリン人とハンブルガー現代美術館に行ったとき、その人はウォーホルとかミニマルとかを絶対に認めない。見れば見るほど不機嫌になってくので最後にはこっちが逆ギレ。別に私はウォーホルを弁護してる訳ではなく、その 「決して認めない」 で人の楽しみの邪魔をする態度に腹が立って、だったら付いてくるな、と心から思った。
そしてちょうどその直後に新国立ギャラリーで旧東ドイツの美術展 (戦後から壁崩壊まで) があって、そこにもその同一人物と (懲りてない) 行ったのだけど、そこで彼は喜々としてとても幸せそうで、たくさん説明してくれて、ありがたかった。
それにしても、西から来た「優秀な」ドイツ人たちはもちろんそんな展覧会なんて行かないんだろうな、と思う。(ごめんなさい。でもそう見える) 彼らにとってアートの中心地は、パリ・ロンドン・ニューヨーク。ドグマに支配され、閉鎖的で、洗練されてない東でかつての、そして現在の同国人が同時代に何を見てたかなんて、どうでもいいっていうか、見たらやっぱり批判しちゃうし、そうするとまるで自分が奢ってるようで自己嫌悪に陥るからやっぱり見たくないもの。
そう、何を言いたいかと言うと、先週 DIE ZEIT で
リヒターについて記事を読んで、今日の「ドイツ美術」は、決してアメリカを中心とする西側世界と西ドイツによる産物ではなく、東と西の対決によって成り立ってると確信したから。
旧西ドイツと旧東ドイツ、表面的には溝が深そうに見えるけど、実はやっぱり一つの国なんだ、と考えることが出来たから。
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戦後ドイツ美術の大御所のひとり、ゲルハルト・リヒター。美術愛好家の間だけでなく、国民的にその名は轟いています。最近ではケルン大聖堂に設置されたピクセル画像状のステンドグラス (
写真) が公開され話題になりました。
そのリヒターがドレスデン美術アカデミー時代に制作した壁画が、ドレスデンの衛生博物館 (Hygienemuseum) の白壁に塗り込められたまま眠っているそう。
こちら衛生博物館 2008年現在
こちら1979年東独政権下で塗りつぶされる前の状態。写真右の扉が同じです。
1961年西独への亡命の折、当局の目をくらますためそれまでに制作された作品のほとんどが東独に置き去りにされた。画家自身は亡命後それ以前の全作品の複製をきっちりとまとめて封印し、一方東独に残されたリヒターの壁画計3つは全て東独政権下で抹消された。
亡命から30年後すでに大芸術家としての名声を確立した1994年にリヒターの元にドレスデンから一通の手紙が届く。
その頃すでに東独政権は崩壊、ドイツ再統一後、衛生博物館は新しく編成され建物も修復されることに決まっていた。そこで修復のための資料集めの際、1956年にドレスデン芸術アカデミーの卒業制作として描かれた真正のリヒター、作品サイズ63.54㎡、タイトル「生の喜び (Lebensfreude)」 がモルタルの下に完全な形で残っているらしいということが発見された、という報告が手紙の内容。
衛生博物館の書庫から見つかった記録簿には、1979年に文化財保護の観点から、歴史的価値の高い衛生博物館の空間をオリジナルの状態に戻すためG.リヒターの壁画を白く上塗りすることが決定されたとあり、またそこには画家がすでにドイツ民主共和国から亡命しており、芸術作品として保存する価値はない、との付記も見られる。
1994年のドレスデンからの手紙は、リヒターに15年間封じ込められていた自身の作品を再発掘する事についての意見を求めるものだった。リヒターは、この壁画にそれほどの労力をつぎ込むほどの価値があるとは思えない、個人的には賛成しかねる、と返答をし、それ以降この件からは距離を置いている。
リヒターが東独時代の自己の作品を否定する態度を取り続けるのは、亡命後の画家としての出発点自体が、東独当局による芸術政策の否定であったからだと思われる。
1951年、リヒターはドレスデンから西側のカッセルへと、ドクメンタ II を訪ねている。当時はまだ列車での国境越えが可能だった。アルプ、ベックマン、ブランクーシ、デ・キリコ、デ・クーニング、クレー。当時のドクメンタは戦後ドイツにおける抽象絵画の祭典であり、またポロック、ニューマン、ラウシェンバーグ、ロスコに代表されるようなアメリカ人作家が巨大なフォーマットとラディカルさで圧倒した国際展でもあった。
後のインタビューでリヒターは実際にこれらの芸術が東独を去った理由であったと語っている。
一方、「生の喜び」。
湖のほとりの(社会主義的?)楽園風景。草木、ボート、遠くに見える工業地帯を背景に、戯れる若い男女、水浴から上がる女、濡れた体を乾かす裸の男、ダンスをする子供たち。画の主題は左から右へと流れていき最後に鳩が飛び交う中に描かれた若い家族像で終わる。画かれた人物達が皆似たような外見的特徴を持つことから、若い男女の恋愛から家族、そして生まれて来る子供たちへと循環する人間の生を思わせる。
「空間の基調を晴れやかで明朗、それと同時に安らかでさわやか、即物的」に造形する、というのが当時の当局からの依頼だった。西独への旅によって壁画と壁装飾の違いが明らかになった、と画家は語る。東独では後者のみが取り上げられている、と。
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写実的な手法で描かれるフォト・リアリズムと純粋な抽象絵画の間を常に行き来する表現方法で知られるリヒター。このように東独イデオロギーによる 「社会主義的リアリズム」 が激しく否定されつつも後のゲルハルト・リヒターの制作活動に多大な影響を及ぼしていることは間違いないだろう。リヒターに代表される 「ドイツ美術」は決して西側世界観の勝利から生まれたものではないということ。
それとはまた別に、リヒターの過去との係わり合い方、自身の暗い過去から距離を取る事で克服しようとする態度は、まるでナチスドイツや共産主義的全体主義など歴史のトラウマを抱えるドイツという国自体の一モデルのようにも見える。
これらふたつの観点から、リヒターという画家をドイツ的な現象と捉える時、ドイツという国は内面で分裂してるようでも、やはり引き裂かれてるという点に置いてこそひとつなんだと思う。それをリヒターというひとりの画家に見た気がしたから。